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◆戦史(~13世紀)
中近東FAQ目次


 【link】

K&T's Page(中南米・中近東の古代遺跡)

「militaryphotos」◆Israel "Peace of the Galilee" war in Lebanon
 ガリラヤ平和作戦のスレッド

「蒼き清浄なる海のために」;「海保の中東派遣計画」を発見した(つもりになっている)東京新聞

「ワラノート」◆やる夫で学ぶ古代エジプトの歴史

「ワレYouTube発見セリ」◆US Marines in Beirut 1982

「ワレYouTube発見セリ」◆レバノン内戦

●書籍

『5000年前の日常 シュメル人たちの物語』(小林登志子著,新潮社,2007.2)

『secular buildings in the crusader kingdom of jerusalem』(Denys Pringle著)

 産業遺跡まで網羅してあるが,教会は別口.
 洞窟城というのが中東にはあるのですが,それにも触れている.
 あくまでカタログと図版の紹介で,細かいところは出典(二次)を書いてあるからそちらを参照せよというスタイル.
 1930年代のフランス人だったと思うが,その人の業績がなかなか超えがたい壁だったことが,出典元をみていくと分かる.
 産業遺跡では水力利用の製糖所が出てくる.
 これはどの過程でやってたんだろう.
 砂糖が貴重品で,イスラム圏からもたらされた文物,というのは知っていたのだが.

 ムスリム,オスマン朝時代,ローマ時代のものも安く手に入るようになれば有難いのだが.
 ネットとアマゾンで洋書の捜索と購入はかなり楽になりました.
 この分野での先駆けである西山洋書は,そこで英語以外の書籍や雑誌といった分野,図版本などで頑張ってるみたいで期待してるです.
 それとオスプレイのシリーズ本で,古いのから新しいのまで揃っているのも,なかなか有難いです.
 シェッファーとかコンコードの大きな本は羨ましいのだけど,今のところは指をくわえてみてる感じです.
 模型とか作るようにならないと,写真は活用できないというか,眼が養われないんですかね.

――――――軍事板

『アラビアの王ファイサル』(ジャック・ブノア=メシャン著,筑摩書房,1976)

『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』(中島偉晴著,明石書店,2007.4)

『オリエントの嵐――中東現代史』(ジャック・ブノアメシャン著,筑摩書房,1990.12)

『クレオパトラ 消え失せし夢』(ジャック・ブノア=メシャン著,筑摩書房,1994.8)

『砂漠の豹イブン・サウド―サウジアラビア建国史』(ジャック・ブノア=メシャン著,筑摩書房,1990.12)

『ゾロアスター教の興亡 サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』(青木健著,刀水書房,2007.1)

『中東軍事紛争史』(鳥井順著,第三書館,1993.11~)

第1巻:古代~1945

第2巻:1945~1956

第3巻:1956~1967

第4巻:1967~1973

第5巻も出ているという情報もあるが未確認.

『バビロニア語文法』(飯島紀著,信山社,2012/08/01)

『ムハンマド時代のアラブ社会』(後藤明著,山川出版社,2012/09)

●●中東戦争関連書籍

『アフリカの二つの夏 中東六日戦争とモロッコの未遂クーデター』(ジャック・ブノア=メシャン著,筑摩書房,1991.9)

『激突!!ミサイル艇』(アブラハム・ラビノビッチ著,原書房,1992.3)

『図解 中東戦争 イスラエル建国からレバノン進攻まで』(ハイム・ヘルツォーグ著,原書房,1990.12)

『図説 中東戦争全史』(学研,2002.10)

『中東戦争全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2001.9)


 【質問】
 古代都市ウバル発見が中東に与える政治的影響は?

 【回答】
 サウディアラビアとしては,もしこれがクルアーンのイラムと同一都市と確認された場合,アラビア半島の守護者として困るらしい.

 ウバルはBC3500年以上前に遡り,旧約聖書に名前が登場する.
 最も栄えたのが紀元前10世紀.ソロモン王とシバの女王が活躍した時代に,オマーンのドハール地方にだけ自生した「乳香」の集散地だったらしい.

 西暦150年発行のギリシャの地理学者プトレマイオスの地図にも,アラビア半島南部に大まかにウバルの地名が記されている.

 「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」にもウバルの地名が登場する.
 同書では,アラビア半島南部の砂漠の中に巨大な都市があり,城門を入ると素晴らしい建造物が軒を連ね,バルコニーや戸口の扉には金や銀の彫刻,真珠,宝石で飾りつけられた豊かな街が表現されている.
 千夜一夜物語はササン朝ペルシャ時代に書かれたのが原型で,後にアラビア語に訳され,時代と共に加筆された.
 ウバルはペルシャ語版に登場しているので,2~3世紀に繁栄していたらしい.

 また,クルアーン(コーラン)にも,アラビア半島南部に「この世に二つとないイラムの都」があったと記され,この都市は「柱の覆い町」と表現されている.ウバルとイラムは同じ都市というのが通説だ.

 ところがウバルは,ある日突然,歴史から消える.街も人間も,砂漠のどこかに埋まってしまった.いつ頃かも分からない.中東の歴史の謎の一つだ.
 オマーン諸部族の先祖と言われるアズド族は,紀元前2世紀にイエメンからドファール地方に移住したが,その部族伝説によると,街の繁栄は自分の功績だとウバルの王が豪語したのを怒った神が,一夜にして町を破壊したのだという.
 消滅は,大地震か気候の激変によるとの説が有力だ.

 20世紀になり,ウバルが実在したことが推定されるようになった.
 1932年,英国の探険家バートラム・トーマスが,ルブ・アル・ハーリを調査した時に,明らかに人工と分かる道路跡を発見した.
 幅は所により100m近くあり,古代の隊商路と推定された.
 道は北に向かい,砂丘の下に消えていた.
 遊牧民ベドウィン族は,この一部残存する古代道路跡を「ウバルの道」と呼んでいた事から,この付近にウバルがあったらしいという話になった.

 1990年,スペース・シャトル「チャレンジャー」が宇宙から撮影した,ルブ・アル・ハーリのレーザー写真を分析したところ,サウジアラビア国境に近いオマーン領内に,トーマス氏が地上で発見した人工道路の存在を確認したばかりか,砂丘の下に埋もれていた道路跡のルートを浮かび上がらせた.レーザー光線の威力である.
 その分析で,砂漠の別のルートがトーマス発見の道路と交差していることが分かり,その交差点がウバルだろうと推定された.

 1991年秋から米英合同発掘隊の発掘が始まった.サラーラ北北西160kmの地点.
 1992年夏までに,紀元前5000年に遡る土器などの出土品,ローマ時代の城壁,石柱などが発見され,古代都市の遺跡と確認された.
 この古代都市がウバルであるとの確証はまだないが,状況証拠からは,まず間違いないと推定されている.
 千夜一夜物語では,ウバルはナツメヤシが生い茂るオアシスの街だが,今の発掘現場付近には緑の樹木は一本もない.
 なにかとてつもない自然現象が起こったのだろう.

 ウバルはオマーン領で発見されたが,面白くないのはサウディアラビアだ.もしこれがクルアーンのイラムと同一都市と確認された場合,アラビア半島の守護者として困るらしい.
 サウディアラビア当局は,
「発掘現場からは,ウバルやイラムの確証となる出土品は何一つ出ていない」
と否定的な見解を表明している.

 ウバル発見と前後して,オマーンでは,乳香の集散地として知られる「サッファラ・メトロポリス」跡と推定される遺跡が見つかった.サラーラ東北東40km,アイン・フムランにある.
 これもプトレマイオスの地図に名前はあるが,位置がはっきりしなかった.
 ここからも土器,建造物跡などが見つかったが,オマーンの砂漠は考古学の処女地と言えるようだ.

 詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』(芙蓉書房出版,1997/1/25), P.140-143を参照されたし.

 なお,2001年12月に朝日新聞社から出版された「アラーが破壊した都市」に寄れば,ウバール滅亡の理由は地下に生じた巨大な空洞に街の数割が沈みこんだためとの事.


 【質問】
 エリンてのはテーベ軍が作ったやつのこと?

 【回答】
 エリンは古代シュメール文明ウル第三王朝で生まれたと「戦略戦術兵器辞典3」に書いてある.
 紀元前2060~2950年ごろとのこと.
 もともとは集団労働組織で,これを軍事組織に転用したようだ.


 【質問】
 伝説ではトロイ戦争(BC1360頃)の引き金となったとされるヘレネーとは,どんな女性だったか?

 【回答】
 山岸凉子はその作「黒のヘレネー」の中で,ヘレネーを演技性人格の持ち主として描いている.この作品の中でのヘレネーにとっては,トロイへの逃亡を含む様々なエピソードも,常に自分自身を物語の中心に置きたい欲求の成せる業に過ぎない.

 一方,中近東ガイドの星川清香は,その著書「糸杉の墓」(築地書館,1997/5/20)の中で,
「当時の徹底した男性社会を知らなければ,彼女が踏み越えなければならなかったバーの高さを知ることはできない」
と,ヘレネーを弁護,彼女を男性社会への反抗者であるという見方を示している.

 これほどかけ離れたヘレネー観を示している,この2人の女性が,ヘレネーの姉,クリュタイムネーストラについては従来の「悪女」観を否定しているのは興味深いところである.
 クリュタイムネーストラを娶るため,アガメムノン王は,彼女の夫と赤子を殺して無理矢理彼女を手に入れた,という点が同情を呼んだのだろうか.


 【質問】
 実際には,なぜギリシャはトロイに侵攻したのか?

 【回答】
 ヒストリー・チャンネルに出演したペンタゴン・スタッフによれば,ギリシャには元々勢力拡大の意図があった.
 トロイは交易上の要地であり,拡大政策を取るギリシャにとっては戦略上の重要拠点だった.
 そこで,ヘレネーの事件を口実に,侵攻を開始したのだった.


+

 【質問】
 アガメムノン王は,トロイ遠征の前に,何を神への生け贄として捧げたか?

 【回答】
 星野清香によれば,

 王の長女イピゲネイアをアルテミス神への戦勝祈願の生け贄として殺した.
 そうするために,王はイピゲネイアを,アキレウスとの縁談が整ったという虚言で誘き出している.

という.

(「糸杉の墓」,築地書館,1997/5/20,p.127を参照されたし


 【質問】
 トロイを発掘したシュリーマンが,トルコでは良い印象がないのは何故か?

 【回答】
 発掘の際の行状が,およそ誉められたものでないから.
 星野清香は次のように述べている.

 現代のトルコ人はシュリーマンの業績を評価しながらも,彼をスラグマー(密輸出人)と呼ぶ.

 シュリーマンは,プリアモス王の黄金以外のものに一切,興味を示さなかった.
 そしてトロイの遺跡を無秩序に掘り起こし,金以外の物は皆,捨ててしまい,見事に刻まれた城壁の石は皆,近所の百姓に売ってしまった.
 彼はプリアモスの金と思われる物を手に入れると,それを誰にも知らせずにギリシャに持ち出し,さらにベルリンに運び出した.ちなみに,それらは今次大戦の爆撃で,全て四散してしまった.

 そのために現在,トロイ人およびトロイに対する研究は一歩も進めることができなくなっている.
 なお,彼が発見した金はプリアモスの金ではなく,ずっと古い時代の物だと現在では分かっている.

 A. ホワイトは「埋もれた世界」の中で,シュリーマンやボッタやローリンソンの業績を紹介して,同じに彼らの発掘を阻止しようとした現地の役人を,容赦なく悪者扱いにしている.
 しかし,私から見ると,シュリーマンやボッタのやっていることを胡散臭いと考えた,現地の連中こそ正しかったのだ.トルコやイラクの立場から言えば,シュリーマンやボッタこそ,現地の無知をよいことにして,勝手なことをやった悪い奴らだと言うことができよう.

 トルコなどでは今でも,外国人の発掘は非常に難しいと聞いている.つまりヨーロッパ人の発掘隊が,彼らの心に解き難い疑いを植え付けてしまったからだ.

(「糸杉の墓」,築地書館,1997/5/20,p.)


 【質問】
 ダリウス大王のなした軍事的革命とは?

 【回答】
 幹線道路整備と騎馬軍団の組織化.

 まず,道路.ユーラシア大陸中央部に築き上げた大帝国を貫通する幹線道路を造った.西方には,ペルセポリスからバグダードを経て,チグリス川沿いにトルコを東西に貫いてエーゲ海に達していた.
 東方には,イランからアフガーニスタンを経てカーブルで南北に分かれ,南はインドに,北は中央アジアに達していた.
 これは通商路と軍事道路を兼ねていた.1日の行程である20-30km間隔に宿場を大王は設けた他,川には渡し場を,治安の悪い地域には城を築いて旅の安全を保障.
 重要な地域の道路は石で舗装し,馬や馬車のスピードを早めた.
 この幹線道路の完成で,それまで1ヵ月以上かかっていた距離が,僅か7日に短縮されたという.

 軍事的にはまた,騎馬軍団を初めて組織的に作り,それを広範囲に短時間で動かすことで,それまでの軍事的常識を破ったが,それも,この幹線道路が可能にしたことだった.

 詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』(芙蓉書房出版,1997/1/25,) P.74-75を参照されたし.


 【質問】
 「マサダの砦」とは?

 【回答】
 険しい岩山ヘロデ王山の上の城砦.
 紀元前100年頃,ユダヤ教の大司祭ヨナタンが築き,後にヘロデ王が宮殿に建替えた.

 紀元70年,ローマ軍はエルサレムを占領,ユダヤ人反乱軍掃討作戦を展開した.
 マサダ砦には,エルサレムから逃れた,女性・子供を含めた1000人以上の反乱軍が立て篭もり,数では圧倒的に優勢なローマ軍団相手に,3年間に渡る篭城戦を行った.
 ローマ軍は山肌を削り,戦車が近付ける道を作って攻撃した.

 落城寸前,指導者エルアザル・ベン・ヤイルに率いられた967人のユダヤ人は,全員が自決して果てた.

 詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』(芙蓉書房出版,1997/1/25,) P.190-191を参照されたし.


 【質問】
 第一次ユダヤ戦争って何?
 3行で教えて!

 【回答】
 第一次ユダヤ戦争 First Jewish–Roman War / A zsidó háború は,66~70年,ローマ帝国の支配に反対する属州ユダヤ人の戦役であり,エルサレム破壊とディアスポラ(ユダヤ人の離散)をもたらした.
 70年,ティトゥスがエルサレムを包囲すると,民衆は激しく抵抗したにも拘わらず,飢餓と疫病が蔓延.
 5か月の包囲の後に陥落して,完全に焦土となり,ヘロデを記念する神殿も破壊された.

A zsidó háború (First Jewish–Roman War) 66-tól 70-ig tartó Júdea ellen vezetett római hadjárat, mely Jeruzsálem pusztulását és a Diaszpórát (zsidók teljes szétszóródását) eredményezte.
Titus 70 húsvétja után körülzárta Jeruzsálemet, a körülfogott tömeg az éhség és a fellépő járványok dacára hevesen ellenállt.
Öthavi ostrom után esett el, s teljesen rommá vált, lerombolták a monumentális heródesi templomot is.

 例によって誤訳御免.

【ぐんじさんぎょう】,2016/07/21 20:00
を加筆改修


 【質問】
 ディアスポラ(離散)とは?

 【回答】
 国土を喪失したユダヤ人が,世界中に散ったことを指す.

 元々ユダヤ人はメソポタミア文明の頃に出現,ソロモン王が統治するヘブライ王国として全盛を極めた.
 だが,ソロモン王が死去すると王国には内紛が起こり,イスラエル王国とユダ王国とに分裂.
 その後,イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ,現在のエルサレムを首都としていたユダ王国も,紀元前586年,バビロニアの侵攻により滅亡.
 その後,国家は再建されるが,
紀元前63年,ポンペイウス侵攻により,ユダヤ地域をローマが支配するようになり,
紀元前37年,親ローマ的なヘロデが王座につき
西暦6年,属州ユダヤ成立.
西暦63年からユダヤ反乱が始まり,
西暦70年,ローマ軍によってエルサレム市街と神殿が完全に破壊される.国土が完全に廃墟になったことにより,ユダヤ人は国家再建のすべもなく,世界中に散っていくことになる.これがディアスポラの始まり.
西暦135年,とどめにユダヤ人がエルサレムから追放される.

 なお,ソロモン王が築いた城壁の,今日の僅かな残存部分が,エルサレム神殿の「嘆きの壁」と呼ばれるものである.

 詳しくは『大人の参考書 「中東問題」がわかる!』(青春出版社,2001/11/10),p.69-70を参照されたし.

アッシリアの破城鎚
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ヨセフ・ベン・マティアスとは?

 【回答】
 1世紀の歴史家.別名,フラウィウス・ヨセフス.
 66年のローマに対するユダヤ人反乱を指導し,ウェスパシアヌスに捕らえられたが,彼が皇帝になるという予言が実現したために釈放された.
 主な著作は「ユダヤの戦い」(77-78)

(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.261訳注)


 【質問】
 パルミラは何故破壊されたか?

 【回答】
 強力な武力を生み出す交易の力を,ローマ皇帝が恐れたため.

 260年,ササン朝ペルシャのシャープール一世は,ローマ軍を破ってオリエントを支配するが,パルミラの有力者オダイナトスは精強な弓兵部隊を率いてペルシャ軍を破った.
 この功績で彼はローマ皇帝からオリエントの支配権を認められるが,「王の王」を自称するようになってローマ皇帝の激怒を買い,長子と共に暗殺された.
 王妃ゼノビアが王位を継ぐが,女王はエジプトに進出,小アジア全域を支配下に置いてパルミラ帝国成立を宣言.しかしローマ軍に敗れて捕虜となる.
 女王はローマに身柄を連行されたが,その後の運命は定かではない.
 同時にローマ皇帝アウレリアヌスの命令で272年,神殿を除き,パルミラは破壊されることとなる.

 詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.199を参照されたし


 【質問】
 「ハトラの火矢」とは?

 【回答】
 パルティア王国の商業都市,ハトラで使われた,タールに浸した火矢のこと.
 以下引用.

 アッシュールの西,〔略〕ハトラの町は,パルティア王国を横断していたキャラヴァン・ルートの宿駅都市として,1世紀頃から栄えていたことははっきりしているのだが,町のできた年代ははっきりしない.
 アッシリア帝国が滅亡した後,アラビア半島から移動してきたベドウィン人達が,ここに,アシュタルテ神やシャマシュ神など,豊穣神や太陽神を衷心とする神殿を建てて,住みついたらしい.
 だから住民はアラブ人で,パルティア王国内にありながら,政治的にはかなり独立していた.

 2世紀初頭にはトラヤヌス帝が,また,3世紀に入るとセプティミウス・セヴェルス帝が,それぞれローマ軍を率いてパルティアに遠征し,ハトラを包囲したが,堅固な砦に守られた住民が,タールに浸した火矢を放って抵抗したので,攻略できなかった.

 このときの住民側の戦術は「ハトラの火矢」と呼ばれて,後世にも伝えられた.

 しかし,それほど堅固なハトラも,270年に,ササン朝ペルシャの皇帝シャープール1世の前には,遂に屈伏した.

「朝日旅の百科 海外編21 イラク・アフガニスタン・パキスタン・湾岸諸国」
(朝日新聞社,1981/6/20),p.1618-1620


 【質問】
 ムハンマドが現れるまでは,アラブ地域の人達は,どんな宗教,宗教観を持ってたのですか?

 【回答】
 イスラム誕生前の中近東の宗教情勢を簡単に御説明しますと,
ユダヤ教=パレスチナ,アラビア半島,イエメン,ティグリス河流域
キリスト教(正統派)=パレスチナ,シリア,小アジア
〃(単性論派)=パレスチナ,エジプト,アビシニア,アラビア半島
〃(ネストリウス派)=ユーフラテス河流域
ゾロアスター教=ペルシア
てな感じですか.

70年のティトゥスによるエルサレム破壊の後,多くのユダヤ人たちが当地を離れ,隊商路に沿ってアラビア半島内部へと移住しました.メディナ(ヤスリブ)などは,もともとはユダヤ人が作った街だったりします.
 彼らは自身の才を活かし,独自の閉鎖的な社会を維持しつつ,商売や農業に精を出し,それなりの勢力を築き上げました.
(ムハンマドはこれらユダヤ集団に片思いを寄せ,したたかに振られるわけですが)

 またキリスト教も宣教には熱心で,特に正統派からは異端とされた,単性論派(モノフィジート)やネストリウス派がアラブへの布教を積極的に進めています.
 イエメンにあったヒムヤル王国の最後の王,ズー・ヌワースはユダヤ教に改宗した上で,ナジュラーンにおいてキリスト教徒2万人を虐殺,これに怒ったアビシニア王国(単性論派)が海を越えてイエメンに侵攻,これを滅ぼすなんてこともありました.

 メッカが多神教を奉ずるクライシュ族の支配下にあり,カーバ神殿が偶像でイパーイだったのは有名な話ですね.
 ただ,周囲のユダヤ教やキリスト教の影響を受け,漠然とした一神教を信仰する人々も存在したという説もあります.

イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板

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※ ムハンマドが啓示受ける
→無学だったので,ユダヤ人にもろもろ教わる
→ムハンマド派が伸張,ユダヤ人はそれを警戒して何も教えなくなる(+笑いものにする)
→ケンカ別れ

http://twitter.com/shaul_idf/status/16845009923870720
――――――


 【質問】
 なぜモスクにミナレット(尖塔,あるいは光搭)があるのか?

 【回答】
 イスラーム教の故事に因むとする説がある.

 ムハンマドがイスラーム軍を率いてアラビア半島を転戦していたとき,礼拝の時が来ると,軍隊をデーツ(ナツメヤシ)が茂るオアシスに止め,手足を洗って礼拝した.
 当然,武装を解くことになる.
 そこを敵兵に狙われないために,デーツの樹に見張りを登らせて警戒した故事に由来するとの説がある.

 時代が下がって礼拝所が建造物になっても,モスクには高塔を築いて見張りを置いたのが,いつしか宗教建築上の形式になったようだ.
 高塔の先端には,夜になると灯が置かれ,大平原を行く旅人の灯台の役割を果たすようになった.

 詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.113を参照されたし


 【質問】
 ミスルとは?

 【回答】
 ミスル(軍営都市)とは,イスラームが征服地の治安維持のために軍隊を駐屯させた場所で,通常はアラビア・アラブ人(アラビア半島各部族)だけが居住を許された.
 現在アラビア語でミスルといえばエジプトのことだが,これもフスタート(カイロ)にミスルが置かれたことに由来する.
 ミスルはカイロ方言でマスルとも言われ,通常はエジプトを意味する固有名詞になった.

 なお,イラクのバスラは,アラビア半島を制圧したイスラーム勢力が,アラビア半島以外の地に建設した最初のミスルである.

 詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.115を参照されたし


 【質問】
 なぜイスラーム教徒にとってもエルサレムは聖地なのか?

 【回答】
 ムハンマドに関する伝承に基づく.

 イスラーム教には荒唐無稽の奇跡は少ないが,唯一の非合理的な伝説がイスラーである.
 ムハンマドがアラーの力を借り,一夜の内にメッカからエルサレムに空を飛んで着陸したのが,エルサレムにある聖なる岩の上だったと伝えられる.
 ユダヤ教とキリスト教の雰囲気が濃厚だったエルサレムの街を,急速にイスラーム化する必要から作られた伝説だろうが,ハディース(ムハンマド言行録)にはイスラーム教徒の義務として,
「旅に出て3つのモスク(メッカ,メディナ,エルサレム)を訪れよ」
と書かれている.

 この聖なる岩だが,旧約聖書の創世紀によると,ユダヤ民族の祖先のアブラハムが息子イサクを神の生け贄に捧げようとしたのが,この岩の上だったと伝えられている.
 古代イスラエル王国のソロモン王は,紀元前10世紀に,その岩のある場所に神殿を建てて,岩を崇拝した.
 前6世紀にエルサレムに侵入した,バビロニアのネブカドネサル大王に神殿は破壊されたが,前20年にヘロデ王が再建した.
 ヘロデ王は,岩を中心にした王城を築いたが,約100年後にローマ軍により破壊され,ユダヤ人はディアスポラ(放浪)の時を迎える.
 ちなみに,この王城の西側の現存する城壁が,今日「嘆きの壁」として知られている.

 また,この聖なる岩は,キリスト教時代にも信仰の対象にされている.

 詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.174-175を参照されたし


 【質問】
 イスラム教徒の方には申し訳ございませんが,
「死後のマホメットがエルサレムで昇天したという話は,事実ではない」
という前提でお願いします.

 質問です.
 上記の「伝説」が生まれたのは,どのような事情があったからなのでしょうか?
 エルサレムは元来ユダヤ教徒かキリスト教徒の聖地で,イスラム教徒……というかアブラハムの庶長子イシュマエルの時代に袂を分かったアラブ人には,何の関わりもない場所だと思います.
 それなのに,上記のような伝説を創作してまで権利を主張するようになったのはなぜなのでしょうか?

 【回答】
 ムハンマドがエルサレムから昇天したのは生前だったはずだけど・・・
 ミウラージュでの天界飛行(昇天)と彼の臨終を混同しているのでは?

 あと,ムハンマドの生きた時代には既に,アラブ人のユダヤ教徒やキリスト教徒はパレスチナ南部からイエメン一帯にたくさんいたので,「何の関わりもない」というのは間違った知識.

 特にムハンマドが登場する直前までシリアにあったガッサーン朝は,シリアに進出したアラブのガッサーン一族が建てた王朝だけど,単性派のキリスト教徒を庇護した事で,宗主国の立場にあったビザンツ帝国から弾圧を受けていたりする.

 イエメンとかはヒムヤル王国の庇護のもと,特にユダヤ教徒やキリスト教徒が多かった地域で,ムハンマドが生まれる直前に国の主導権を巡る宗派間の対立から,キリスト教徒を擁護していたエチオピアのアムハラ王朝やビザンツ帝国,ユダヤ教徒を後援していたサーサーン朝の代理戦争のような感じになった.
 ユダヤ教徒よりのズー・ヌワース王がキリスト教徒住民を虐殺する事件が起きて,これが切っ掛けでエチオピアがイエメンへ侵攻,ヒムヤル王国を滅ぼし,メッカあたりまで攻め込んでいる.

 無論,アラブ全体がユダヤ教徒やキリスト教徒に分かれていた訳ではなく,遊牧民やメッカのようなアラビア半島中部あたりの都市民にも,まだ多神教を奉じる人々が大半だったようだが,ムハンマドの大叔父がキリスト教徒だったくらいで,当時のアラブ人にとってはユダヤ教もキリスト教も,半分以上は自分達自身の問題でもあった.

世界史板,2009/09/21(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ムハンマド暗殺未遂事件の経過は?

 【回答】
 623年にムハンマドはユダヤ教徒に2度,命を狙われ,その後,偶像崇拝のクライシュ族との闘争の原因になった.
 以下引用.

 クルアーンを手にしたムハンマドは,その内容を実践に移した.
 これは,偶像を崇拝し,富を集めて奢侈(しゃし)に耽っていた支配者クライシュ族にとって,都合の悪いことであり,ムハンマドと彼に従う人々=モスリム(イスラム教徒)を迫害した.
 そこで一時,ムハンマドはイビシニア(エチオピア)まで逃れたりした.

 迫害に続いて,ムハンマドは暗殺の危機に見舞われる.
 623年,ユダヤ教のサーサ部族から,イスラムに改宗したいという申し出があり,ムハンマドらモスリムが赴いた.
 だが,サーサ族は実はムハンマドの暗殺を狙っていた.
 ムハンマドは行かず,代わりに赴いたモスリム40人は全員殺された.〔略〕

 そこで,クライシュ族はムハンマドの暗殺を計画し,メッカ中の豪族から,1部族につき1人の刺客を選んで差し向けた.
 ムハンマドは側近のアブー・バクルと脱出し,自分のベッドにはアリを寝かせておいた.
 刺客達はムハンマドのベッドでアリを発見して,ガッカリした.

 以後,メディナを根拠地とするムハンマドらモスリムと,メッカのクライシュ族との間で闘争が始まった.

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.102)


 【質問】
 初期のイスラムの拡散運動でジハードの際に有名な指揮官みたいなのはいなかったの?

 【回答】
 ウマイヤ朝の東方拡大期の将といえば,
クタイバ・イブン・ムスリム・アルバーヒリー,
ムハンマド・イブン・アルカースィム・アッサカフィー
の二大司令.

 クタイバは戦闘・戦術レベルがそこそこ優秀といった評価にとどまり,戦略的視点は欠いた人物のようだけど,ムハンマドは総合的にも優れた名将だったようです.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハワーリジュ派とは?

 【回答】
 第3代カリフ・ウスマーン(656年没)の統治期には,アラブの「大征服」がやや停滞する一方,カリフの一族であるウマイヤ家の同族重用が進み,一般ムスリムの不満が高まった.
 結果としてウスマーンは,直訴に来たエジプト駐留軍に殺されてしまう.
 続く第4代カリフにはアリーが就任したが,ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤはこれを認めず,イスラーム共同体は初の内戦に突入.
 657年,両軍はユーフラテス河畔のシッフィーンで戦ったが,戦局は膠着.
 双方が調停による解決を図ることになる.

 この時,アリー軍の一部が調停に反対し,戦場から離脱.彼らが「ハワーリジュ派」である.
 イスラーム史上最初の宗派である彼らは,ウスマーン以降のカリフを全て大罪人・不信仰者と見なし,その排除を訴えた.指導者の不正を見逃せば,共同体全体が道を誤ることになると考えたからである.

 そもそも彼らがアリー軍に加わった理由は,単なるアリー支持ではなかった.
 彼らはまず,ウスマーンを神の命令たる公正さを欠いたがために悪と見なし,悪を支持するムアーウィヤもまた悪と信ずればこそ,アリー軍に加わったのである.

 だが,悪と取引するアリーもまた,彼らにとっては今や悪=敵となった.
 彼らは翌年,アリー軍と戦い,数百人を残して全滅するが,661年にはアリーを暗殺.その後もウマイヤ朝に対する攻撃を繰り返した.

 ハワーリジュ派は信仰すなわち行為と考え,敬虔なムスリムであれば誰でもカリフになる資格があると主張.
 その一方,ウスマーン以下は大罪を犯した結果,既にムスリムではなく,不信仰者となったと断定された.
 ハワーリジュ派内の過激派であったアズラク派に至っては,ウスマーン以下の不正を正すために行動しない者もまた罪人とし,自派以外は全て殺害すべしという極めて過激な思想を展開したと言われている.

 だが,こうした思想はスンナ派からもシーア派からも「異端」と見なされ,やがて消滅した.
 現在では,ハワーリジュ派の穏健派で,他宗派への攻撃原理を棚上げしたイバード派が,オマーンとアルジェリアの南部などに残るのみである.

(飯塚正人=イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.55を参照されたし


 【質問】
 カルバラーの戦いとは?

 【回答】
 マホメットの孫にして第3代イマーム,フサインがウマイヤ朝に誘き出され,憤死した戦い.
 以下引用.

 初代イマーム〔人類の指導者〕はマホメットの従弟で,娘ファーティマの夫でもあるアリーである.
 アリーは,イランでは時にマホメットに匹敵する位置を占める.
 その子,すなわちマホメットの孫に当たる2人の男子の内,兄が第2代イマームになったハサン,弟が第3代イマームになったフサインである.

 アリー暗殺後,ハサンはカリフを名乗ったが,シリアの太守ウマイヤ家のムアーウィヤとの抗争に利あらず,将来,弟フサインにカリフの地位を返還する事を条件に,ムアーウィヤと妥協した.
 ムアーウィヤは権勢並ぶ者なくなり,ウマイヤ朝を樹立した.
 しかし,彼はその後,ハサンとの約束を破り,フサインにカリフの座を返還しなかった.

 その後,フサインは,クーファの住民から要請を受けた.ウマイヤ朝の支配を排除するため,出馬して欲しい.
 フサインは勇躍イラクの地に乗り込んだが,待っているはずのクーファの民は,そこにはいなかった.
 フサインは誘き出されたのだった.
 引くに引けなくなったフサインは,ウマイヤ勢に包囲され,衆寡敵せず,遂に全滅した.

 これが,イラン人の熱心な信徒が,涙と共に語るカルバラーの悲史である.
 ときに,回教暦61年(西暦685年)ムハッラム10日の事だった.

 今日,ムハッラムの月が来ると,イランのシーア派住民は黒の弔旗を掲げ,タクシーも小さな黒の弔旗を立てて走る.
 我と我が身を打ち叩き,小躍りしながら,黒い旗を翳した数十人の行列が通る.
「アリー! ハサン! フサイン!」
と,口々に叫び声を上げ,鎖や刀で胸や肩を打ち叩く.血だらけになる男もいるという.
 カルバラーにおけるフサインの犠牲を,我が身を打ち叩くことによって偲ぶのだ.

 アフ【ガ】ーニスタンではシーア派のハザラ人が,臨時にテントを張った集会所に,男と女が,老いも若きも,子供も,立錐の余地もないほど詰めかける.
 高い説教台に,白のターバンを巻き,黒や灰色のガウンを纏ったムッラー立ちが次々に登り,悠長な調子で,しかも,いかにも哀調を帯びてカルバラーの物語を語る.
 やがて,それを聞いていた老若男女の間に興奮が高まってくる.
 誰かが泣き出す.女のほうが先に泣き出す.1人,2人,3人,おい,おいと声を出して泣く.
 泣き声はますます高まり,泣き声がいっそう興奮を高める.
 ムッラーのほうでも,これでもか,これでもか,というように,いっそう甲高い声で,痛憤限りない口調で叫ぶ.
 やがて誰も彼もが泣き出す.カルバラーのフサインの憤死が,とめどもない涙を誘うのだ.

(津田元一郎「アフガニスタンとイラン」,アジア経済研究所,
1977/3/31,p.148-151を参照されたし

 マシュハドに滞在中,私はアシュラの儀式,特にフセインに捧げられた礼拝場,ホセイニエ・ジャフィーヤ,それとケルバライで行われた儀式に立ち合う機会があった.
 この儀式は,シーア派のイスラーム教徒にとっては,モハラン月の10日目の記念に当たる.
 この日は西暦680年,アリとファティマの息子,予言者モハメットの孫に当たる第3代目のイマーム・フセインが,イラクのカルバラの戦いで死んだ日である.
 この日に先立つ9日間が,儀式の夜になる.

 儀式は,宗教指導者の説教で始まる.
 宗教指導者は,この戦いの,神のメッセージとも,騎士道の叙事詩とも考えられる話を語る.
 フセインの歴史の主要部分を聞いて私は,カメロネ(メキシコ1863年4月30日)におけるフランス外人部隊の武勇伝の場面を想起した.

 フセインは72名の仲間達と共に,3日の間,水も食料もないまま,最初のスンニ派,カリフ・オメイヤッドの何千人もの兵と戦って死んだ.
 フセインが,生後数ヵ月にもならない息子と共に殉教する,最も悲痛な個所に差しかかると,絨毯の上に座って聞いている,髭面の逞しい男達は,近親者が死んだと聞かされたかのように涙を流すのだった.
 キリスト教会で信者が,イエス・キリストが十字架に架かって死んだことを思い起こして,涙を流す場面を考えていただきたい.
 これは信仰心の現れであり,それゆえに,イスラーム教徒の人達は友愛の気持ちから,私にこの儀式に参列してもよいと言ったのだ.

 夜も更けて,泣いていた男達は上半身裸になり,同心円状に輪を作るか,あるいはカルバラにあるフセインの墓の実物大の復元に向かって立ち,フセインの名を声を揃えて叫びながら,筋骨逞しい腕で規則正しく早い拍子で,一定の間隔を置いて胸や額を叩く.

 それから,マシュハドに住むトルコ系の大グループが,ホセイニエに,何百人か到着する.
 皆,喪を表す黒い服を着ている.
 彼らは1m強の,これも黒い棒を持っている.これは剣を象徴するものだ.本物の剣は,イラン政府が7,8年前に,儀式での使用を禁止した.
 儀式は毎年,自分の頭を割ってしまった流血騒ぎで中断されることがある.

 私は彼らを見て呆然としていた.
 信者達は見えない敵を打ち倒し,さらにフセインの名を唱えながら,棒を自分の額に次第に早く打ちつけ始めた.
 これは,殉教者の受けた痛みを共有し,もしそこにいたのならば,殉教者と共に倒れたであろうという意思を表現するものなのだ.
 何人かは儀式の興奮で憑依状態となり,元気な者が6人がかりで静めている.

 毎夜,深夜近くにホセイニエの地下で,それを必要とする困窮している人に,無料の食事が出される.
 私はこの場に招待された.
 参加者は同時にやってきて,部屋いっぱいにクロスが敷かれた床に座る.
 大きな鍋から,肉や白インゲン豆や乾しブドウで味付けされた米飯がサービスされる.
 一同は喜びや,信じる心や,友愛や食事を分かち合う.

 時には,あらゆる年齢の男達が,アマーム・レザの霊廟に向かって,フセインの名前を唱えながら行進する.
 ある者は,長い金属の棒のようなものの先に火を燃やし,またある者は,羽やライオンや朱鷺やその他の動物が彫刻された飾りを担いでいる.これは一人で持つには非常に重いものなのだが,群衆の中で予言者の孫の名誉を担うのは特権なのだ.
 志願して担いだ者は,精魂尽きるまで運び,よろめきながら次の信者の肩へと,責任を引き継いでゆく.
 霊廟に着くや否や,彼らの興奮は殆ど憑依したかのようになり,自分の胸を叩き,ヒステリーと紙一重の状態になってしまう.

(フィリップ・ヴァレリー Philippe Valery 著「シルクロード紀行 いくつもの夜を越えて」
西東社,2005/7/20,P.165-168)


 【質問】
 なぜ第4代カリフ,アリーの廟がマザーリシャリフにもあるのか?

 【回答】
 ムスリム同士の争いの結果,「ここで墓が発見された」ということにされたためだという.
 以下引用.

 「青のモスク」と呼ばれるマザーリ・シャリフのモスクは,マホメットの従弟で第4代のカリフ・アリーの廟である.
 アリーはイラクで葬られたことになっていたが,15世紀,イスラム教内の争いから,ここで墓が発見されたとして,美しい廟が建てられた.
 マザーリ・シャリフとは「聖者の墓」という意味である.
 こうして,この町は,西隣の古都バルフに代わって新興都市として栄えている.

山と渓谷社編「シルクロード1 中国・ソ連・アフガニスタン」(山と渓谷社,1975/6/1,p.72


 【質問】
 「キングタム・オブ・ヘブン」という映画の攻城シーンで,バッカンバッカン炸裂する壺?みたいのを投げてたんですが,当時はナフサやガソリンは無いと思うんですが,何が入ってたんですか?

 【回答】
 石油精製の歴史は古すぎてはっきりとは判らないのですが,古代エジプト第12王朝(紀元前1900年代)の頃には既に取り組まれていたようです.
 第18王朝(紀元前1500年代~)の頃,技術的にもだいぶ完成されてきていました.

 7世紀初頭,イスラム拡大期初期の軍事的征服にはナフサが投入されました.
 現在で言うナパーム弾のような兵器でした.
 それでもナパーム系兵器の初出は,これではなかった可能性が充分にあります.
 自分が知らないだけで,精製石油を用いた兵器の登場は更に古いのかもしれません.

 それでその映画ですが,壷の中身はおそらくタールでしょう.
 タールっていうと日本では粘性のあるネバネバの黒い奴を思い浮かべるけど,中東やアフリカでは透明なサラサラのタールもあって,可燃性もかなり高い.
 NHKのメソポタミア遺跡特集やってた時に,当時,建築に使われたと思われるタールの湧出泉が今でも残ってて,現地の人はそのタールを防水用として船底なんかに塗って利用しています.

 んで,その池は透明なサラサラのタールと普通の黒いネバネバのタールが一緒に出るんですが,そのまま黒いタールを取りに入ると,透明タールに静電気なんかで引火して火だるまになりますから,はじめに火をつけて透明タールを燃やすんですが,それがガソリン並みにエライ勢いで燃えていました.

 可燃性が高くて粘性が水みたいに低いから,これを投げ込まれたら広範囲に広がって消火に苦労すると思われます.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ザイド派とは?

 【回答】
 ザイドは第4代カリフ,アリー(ムハンマドの従弟,かつ娘婿.661年暗殺)の曾孫である.
 彼は740年,南イラクのクーファでウマイヤ朝への反乱を企て,破れて戦死した.
 ザイド派の思想は他のシーア諸派に比べてスンナ派に近く,イマームの幽隠や不可謬を認めない.
 またザイドは,他のシーア諸派が預言者ムハンマドによるアリーへの後継者指名伝説に基づき,彼以前の3人のカリフを「簒奪者」と非難したのを退け,「劣ったイマーム」としながらも,彼らの合法性を認めた.
 こうした思想と歴史を反映してか,同派のイマーム論では,不正な支配権力に対して武器を取って戦う力が,イマームの必須条件とされている.

(飯塚正人=イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.53を参照されたし


 【質問】
 カリフ制が崩れたのは?

 【回答】
 世俗化の果てに,モンゴルによってとどめを刺された.

 ウマイヤ朝になって,信仰心・見識共に当代随一の人間を選出するという原理が放棄され,カリフの地位が世襲制になることによって,政体は通常の王権と変わりないものに変化.
 権力の世俗化は,社会的に非イスラーム的なものを再び復活させ,それによって共同体内部の統一が直ちに乱されることになる.

 そこに「イスラームに帰れ」をスローガンに,アッバース朝がウマイヤ朝を打倒.
 しかし,政権奪取後の施政に関しては,アッバース朝もウマイヤ朝と変わるところがなかった.
 その結果,政治中枢では権勢を求めて世俗的な実力者達が暗躍,遂には彼らがカリフの地位を形骸化してしまうことになる.
 そしてこの王朝の中期以降,教権はカリフに,政権はアミール(政治的実力者,後のスルターン)に委ねられるという,支配の双子時代となる.

 そして,周辺地域で分離・独立する地域が増え,アッバース朝の勢力が地に落ちた時期に,東方から襲いかかったのがモンゴル勢だった.
 彼らはアッバース朝を倒すと同時にカリフを殺害.
 それ以降,イスラーム世界には,正式には教権の長としてのカリフは存在しないことになった.

(黒田壽郎=イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.38-39を参照されたし


 【質問】
 イスラム諸王朝で,兵隊=奴隷という制度があるが,恨まれてぶっ殺されたりしないの?,支配階級とかが.
 半分くらいは傭兵,あと1割くらいは騎士階級で構成しないと枕を高くして寝れないのでは?

 【回答】
 奴隷の語感が違うんよ.
 今で言うとサラリーマンのようなものは,奴隷だ.
 生産手段と参政権があって真人間.

 中世イスラム王朝では,都市を支配し,間は茫々としている.
 日本とは違って乾燥地なので,農業も都市の産業な.
 で,生産手段=農地なわけだ.
 年貢を運ばないといけないし,運ぶときには間の区域は王様の支配の及ぶ,ちゃんとした支配地ではないので,盗まれ易い.

 そこで間をウロウロしている,遊牧民の主にトルコ系の連中を手なづけて,
「おぃ,おまぃら,都市間の商業物流の特権と,税の運搬でマージン何割渡すから,王様の言うこと聞いてそのとおりにやってくれや」
というような約束をするわけ.
 遊牧民は農地を持っていないから,名目上の階層は,奴隷ということになる.

 それが進んでくると,税を集めるところからやってくれ,運搬の護衛ができるなら戦争で騎馬兵になるだろう,と,あちこちでひっぱりだこになるわけよ,
 そうやって,一族まるごと家畜ごと,徴税と軍務と治安維持をやらせるために呼び寄せてくる.
 こういうのをマムルークとかトルクメンとかいう.

 日本の幕藩時代にたとえると,士農工商の,農と工が都市住民,士と商とがトルコ人の奴隷兵団な.

 ちなみにローマにおける奴隷も,定義「職業選択の自由のない労働者」としてもいい程度に自由だった.
 元奴隷に至っては,完全に自由民扱い.
 アントニヌス法によって市民権まで得られるし.
 日本語で言う奴隷のイメージとはかけ離れてることを,まず踏まえるべき
 まあ,そんな感じだからローマの崩壊以降はごく自然に,下層民あたりの階級にシフトした.

 で,前線に出す奴隷は当然,寝返らない保障がなければ困る.
 方法は大きく分けてふたつあって,ひとつは武器を持たせないこと.
 丸腰で前線に蹴り出して,後ろからは支配側が武器を持って行かずば斬るぞと脅すわけ.
 丸腰でも,堀を埋めたり城壁に上ったり敵の注意を引いたり,やれることはいくらでもある.
 当然いくら死のうが知ったことじゃない.

 もうひとつは,子供のうちから徹底的に教育する方法.
 奴隷ではあっても絶対忠誠を誓うように洗脳しちまう.
 マムルークやイェニチェリはこっちに近い.

 まあ,アッバース朝みたいに,チュルク系の傭兵に最終的には脅かされた例もあるにはある.

世界史板
青文字:加筆改修部分

マムルークの徴募
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 サーマーン朝,ブワイフ朝って,アッバース朝の範囲内に出来たって解釈でいいの?

 【回答】
●サーマーン朝
 アッバース朝からに独立した軍事政権.
 形式的にはアッバース朝の臣下の形を取っている.
 無理やり例えると,唐の節度使が節度使のまま,唐王朝に独立を無理やり認めさせてる様な状態.

●ブワイフ朝
 アッバース朝のカリフを傀儡にして,実質的にアッバース朝を乗っ取っている状態の政権.
 無理やり例えると,ローマ教皇とローマ皇帝の関係に近い状態.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イスラームのとこで,ブワイフ朝とファーティマ朝は同じシーア派なのに,なぜ対立したの?

 【回答】
 ブワイフ朝(932~1062)は十二イマーム派(ただしあまり熱心じゃなかったらしい),
 ファーティマ朝(909~1171)はイスマーイール派.

 十二イマーム派は6代目イマーム,ジャアファル・アッ=サーディクの後継者をムーサー・アル=カーズィムとしてこれを7代目とし,12代目ムハンマド・ アル=ムンタザムの「御隠れ(ガイバ)」最後にイマームは終末の日に復活して,救世主(マフディー)として現世に出現しないとしている.
 一方,イスマーイール派のファーティマ朝は,6代目ジャアファルの別の息子イスマーイールこそが7代目であり,その数代後の子孫ウバイドゥッラーこそイマーム位を継ぐマフディーであると宣言した.

 政治的には,ブワイフ朝はアッバース朝カリフから「アミール・アル=ウマラー」の称号をもらってアッバース朝に臣従したので,アッバース朝のカリフ位を認めず,イスマーイール派のイマーム位を喧伝する宣教員を各地に派遣しているファーティマ朝とは当然,対立する事になった.

世界史板
青文字:加筆改修部分

 シーア派の中でも誰を正統なイマームつまり後継者として認めるかで争いはあるんだけども.最大派閥の十二イマーム派では,第12代イマームのムハンマド・アルマフディーは死んだのではなく,「隠れた」とされている.
 で,将来帰ってくるんだと.
 それ以降はイスラム法学者がイマームの代理として信者を指導する.
 ニュースなんかでイスラム法学者の言動が話題になることがあるのはこのせい.

カラジチ ◆mWYugocC.c in 世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マンツィケルトの戦い(1071年8月26日)で,数が多いビザンツ帝国が負けたのはなぜですか?
 そしてもうひとつ,なぜこの戦いを皮切りに,すぐに小アジアが奪われはじめたのですか? それ以前のアッバース朝との戦いでは,敗北はしても,小アジアは奪われなかったのに.

 【回答】
 マンツィケルト Mantikelt の頃には,ビザンティン軍はかつてのテマ制による強力な騎馬軍団を維持できていなかったのが1つ.
 バシレイオス2世頃までのビザンティン軍の主力,カタクラフト(重装騎兵)は,農民に自前で武装させていたもの.
 ところが,洋の東西を問わず,農村支配がいきつくところは,富農と貧農の分離.大多数の農民はどんどん貧しくなって,土地を失い,小作人化してしまう.
 そうなると,自前で武装するなんて無理な話.
 テマ制の軍はこうして事実上崩壊し,その分を傭兵で補わねばならなくなっていた.
 トルコ人と戦うのに,そのトルコ人を傭兵の一部に雇っていたぐらいで,数は揃えていても信頼性に欠けていた.
 しかも,この国の宿命で,権力者は内紛に明け暮れていて一枚岩ではない.これでは士気も低かったろう.

 つまりテマ制の崩壊,そしてトルコ人に民族の勃興期の勢いがあったこともあって,小アジアは失陥してしまうわけ.
 マンツィケルトで皇帝自身が捕まったことによる本国の混乱も一因だろうね.

 【参照】
http://www31.ocn.ne.jp/~tactic/mantikelt.html

(世界史板)


 【質問】
 今日のバクダードは,千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)時代のそれと同じものか?

 【回答】
 当時の華麗なバグダードは,モンゴル軍に破壊され,今日では殆ど残っていないという.
 以下引用.

 1258年2月,フラグ汗に率いられたモンゴル軍が,バグダードの町に押し寄せた.
 詩人や学者達の首が,戦利品のように槍の先に掲げられた.
 図書館の貴重な書物は積み上げられて,火がかけられた.
 その火照りと,殺された何十万もの住民の血で,ティグリス川は赤く染まったという.

 盛時の建物で今も残っているのは,アッバース朝王宮の廃墟,世界最古の大学と言われるエル・ムスタンスィーリヤ神学校,それにスーク・ル・ガジルの尖塔(ミナレット)ぐらいのものである.
 この他,昔のバグダードの面影を伝える物として,「ハーン」(隊商宿 キャラバンサライ)が一つだけ残っている.
 それは,ティグリス川にかかるシュハダー橋を渡った対岸にある.つまり,ハーン・マルジャーンで,観光省によって最近修理され,レストランになった.

「朝日旅の百科 海外編21 イラク・アフガニスタン・パキスタン・湾岸諸国」
(朝日新聞社,1981/6/20),p.1608


 【質問】
 昔の中東地域の地図を見ると,イスラム帝国時代(ウマイヤ朝・アッバース朝)はアラビア半島の全域を版図にしていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Abbas-will.png
のに,セルジューク朝やオスマン朝はペルシャ湾や紅海の沿岸部しか治めなかった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Seldschuken-Reich-map.png
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6a/Ottoman_1683.png
のはなぜでしょう?
 半島中央部が砂漠だからでしょうか?

 【回答】
 第一に,もともとアラビア半島は馬の生育には適さない土地で,アラビア半島内陸は遠征は出来ても,騎馬軍団を駐留して統治できる程の草原も水場も少なかった.
 セルジューク朝やイルハン朝も幾度か,南方から来寇するベドウィンの勢力を討伐したりしているが,統治まではしようとしていない.
 マムルーク朝もシリア周辺のベドウィンの首長たちの服属を受けているが,直接統治などはしなかったようだ.

 第二には,紅海やペルシア湾沿岸の諸勢力はオアシスや都市が多かったため,他の地域と同様,これらの都市住民がセルジューク朝やイルハン朝,オスマン朝の政権を認証して帰順しその版図に加わった.

 半島内陸部に都市が殆どなかったというのもあるだろうが.

 初期イスラムが砂漠を版図に治めたのは,単に砂漠のアラブが主体であって,砂漠を特に苦としなかったというだけのこと.

世界史板


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