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◆戦史(1946〜1979)
<中近東FAQ目次
Persian Tank TNH

【質問】
第2次大戦で中立的だったトルコが,なぜ戦後,朝鮮戦争派兵やNATO加盟を行ったのか?
【回答】
ソ連の強欲のためです.
ソ連は1945年2月25日に,トルコとの友好関係を更新するという口実の下,モントルー条約の諸条件を変更し,ダーダネルス・ボスフォラス両海峡にソ連基地設定を要求したばかりでなく,東部アナトリアのカルス,アルダハン,アルトヴィンに対するグルジアの返還要求を指示し,さらにブルガリアにトラキア地方の一部割譲を要求しました.
これは,トルコ国民の間に存在する伝統的な反ロシア感情を呼び起こし,両国の敵対関係に発展します.
一方アメリカのトルーマン大統領は47年3月,トルコとギリシャに対する経済援助の必要性を強調するトルーマン=ドクトリンを発表.48年以後,トルコへ1億ドルの経済援助を行います.
こうしてアメリカ傘下にトルコは組み込まれていったのです.
詳しくは,『世界現代史11 中東現代史1』(山川出版社,'82),P.184-185(永田雄三著述)を参照されたし.
ついでに朝鮮戦争って「何故この国が?」「この程度の兵力で?」ってなのが目立つよなぁ.
フランス,オランダ,ベルギー,ギリシャとか一個大隊派遣してるし,笑ったのがルクセンブルクが一個小隊(50名)のライフル兵派遣.ベルギーの部隊内に編集していたみたいだけど.
エチオピアなんか,いわゆる「近衛部隊」を派遣しているからなぁ.
【質問】
アラブ=イスラエル紛争とは? また,イスラエル,アラブ側の主張とはどんなものか?
【回答】
中東での,異なる民族意識を持つ2つの民族間で起きた,猫の額ほどの土地をめぐって,6次にわたり繰り返された紛争,現在も完全に決着が付いたわけではない.
これについて,イスラエルは,紀元後70年に追放され,世界各地に拡散するまでの間,この土地はユダヤ人がずっと支配してきたという聖書の時代にまでさかのぼり,領有権を主張している.
近代に入り,イスラエルは2つの世界大戦時の彼らの経験に注意を喚起している,
WW1中にイギリスは,バルフォア宣言(イギリス政府が,イギリスのシオニスト連合・ロスチャイルド卿に出した書簡)で,パレスチナにユダヤ人の母国を建設することに,イギリス政府が協力するという趣旨のものであった.
ヒトラーによるホロコーストの悲劇がユダヤ人国家の必要性を証明している,と,WW2後にイスラエルは主張した.
1948年にユダヤ人移住者たちは,パレスチナの分割を受け入れる用意があったが,その土地のアラブ人はそれに同意しなかった.
国連は,イスラエルの主張を承認したが,イスラエルは,アラブ人の攻撃から自らを守るために戦うこととなった,
これがイスラエル人による,イスラエルという国家の歴史的な起源とその正当化の理由である.
アラブ側では,この土地が何世紀にも渡って自分たちが住んできたことを主張した,
実際,バルフォア宣言がWW1に出されたときには,パレスチナに住んでいる住人の90%はアラブ人だった.
1932年になっても,80%がアラブ人であり,彼らは,イギリスには,アラブ人の犠牲の上にユダヤ人に国家建設を保障する権利はない,と主張した.
さらに,ホロコースト自体は世界史上最大の罪の1つであるとしても,それを行ったのはヨーロッパ人ではないか,なぜアラブ人がその代価を払わねばならないのか と主張した.
これについて,ナイ教授は以下の見解を述べている.
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どちらも,もっともな点があるように見える.
第一次大戦の時,現在のパレスチナはトルコ人に支配されていた.そして,オスマン帝国は解体され,アラブ地域の領土は国際連盟の委任統治下に入った.
フランスがシリアとレバノンを統治し,イギリスは自らが受け取った土地のうち,ヨルダン川から地中海までの地域を「パレスチナ」と呼び,ヨルダン川を越えた部分を「トランス・ヨルダン」と呼んだ.
1920年代いパレスチナへのユダヤ人移民がゆっくりと増えていったが,1930年代に入ってヒトラーが登場し,ヨーロッパでの反ユダヤ主義が高まると,移民の動きは急速に加速した.
1936年までには,パレスチナの人口の40%はユダヤ人になっていた.
この流入によって,アラブ人住民の暴動が起きるようになったのである.
イギリスは王立委員会を設置し,この委員会は2つの地域への分割を提案した.
1939年5月,第二次世界大戦の危険が迫る中でイギリスは,ヒトラーのドイツに対抗するためにアラブ人の支援を必要とした.
そこでイギリスは,アラブ人に対しユダヤ人の移民の制限を約束した,
しかし,戦争が終わってみるとこの制限を維持することは困難となった.
ホロコーストの結果,ヨーロッパの多くの人はユダヤ人の母国という考え方に同情的になった.
また,ユダヤ人難民の密航も増大していた.
さらに,パレスチナのユダヤ人入植者の中には,イギリス人統治者に対してテロ活動を行うものも出るようになった.
イギリスは第二次世界大戦で経済的にも政治的にも疲労し,1947年の秋にはインドが独立を宣言した.
結局,イギリスは1948年5月に問題全体を国連に委ねてしまったのである.
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・イスラエルの主張は,紀元前からの歴史的なものと,イギリス政府との約束に根拠を求めている.
・アラブ人の主張は,数世紀に渡って居住してきた事実と,この土地に数多くのアラブ人が住んでいることに根拠を求めている.
・イギリスは最終的に国連に判断を委ねた.
・・・いつものイギリス外交というか,ずるいけど国連のうまい使い方だと思う.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第1次中東戦争について教えられたし.
【回答】
第2次大戦後,英国・ユダヤ・アラブ3者による暴力の応酬が再開.
泥沼化した事態に英国は,発足したばかりの国連になんとかしてくれと泣きついて,特別委員会で解決策が話し合われることになったんだけど,この時点では,連合国側について大いに奮戦した+ナチスのあまりにあまりな殺戮ぶりが明るみに出てて,ユダヤ人に同情が集まってたのね.
だからパレスチナを(人口比率からいうとユダヤ有利に)分割するという決議案が採択されたわけ.
ユダヤ人はもちろん喜んでこれを受け入れたんだけど,アラブ人…この場合は周辺国の…は不公平だと言って怒った.
「こんなもん認めん! 潰す!」
ということで,イスラエルの独立宣言と同時に,エジプト,トランスヨルダン,シリア,レバノン,サウジアラビア,イラクのアラブ連合軍が国境から雪崩れ込んだ(当然,裏には領土的野心込みで).
これが第1次『中東戦争』の始まり.
片や小銃とバズーカ,迫撃砲程度しか持っていない雑軍(この時点ではIDF=イスラエル国防軍は存在してない).
片や中古とはいえ,一応の近代装備は揃えた連合軍.
下馬評から言えば,イスラエルが瞬殺されて終わるだろうというのが一般的なところだったんだけど…
徳俵に足のかかったイスラエル軍が,驚異の粘りを見せる.なにしろ彼らはここで負けたら後がない.ユダヤ・ネットワークを駆使し,世界中から武器をかき集め,大戦中に各国の軍隊で前線に立った兵士達が,指揮がバラバラで統制のとれないアラブ軍を蹴散らす.
で1回の休戦を挟んでイスラエル軍はアラブ連合軍を国境の外まで押し戻し,戦争終結時にはパレスチナの大部分を占領するに至る.これが今のイスラエルの領土ね.
結果として国連の決議案より,だいぶ増えた.
残りのウエストバンク(ヨルダン川西岸),ガザはそれぞれトランスヨルダン,エジプトが占領した.これが今のパレスチナ自治区.
ところでイスラエル国内のアラブ人の多くは,戦乱を避けてレバノンやウエストバンク,ガザに逃げたんだけど,戦争が終わっても,イスラエルは国境を閉ざして二度と彼らを受け入れることはなかった.パレスチナ難民の発生だ.
そして彼らは未だ帰れないでいる….
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
第一次中東戦争の経緯は?
【回答】
1947年に,国連がパレスチナ分割を提案したが,アラブ側はこれを拒否した(ここで受け入れていたほうが,結果的にはアラブ側に有利だっただろう,まぁ,結果論ではあるが)
1948年5月にイスラエルが独立宣言をすると,イスラエル近隣のアラブ諸国は,分割案を覆そうと,イスラエルに攻撃を開始し,8ヶ月に渡って戦闘が行われた.
以下ナイ教授の解説.
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この第一次中東戦争は,戦闘が激化したり低下したりしながら8ヶ月続いた.
アラブ人は人口ではイスラエルに40対1と勝っていたが,ほとんど組織されておらず,不統一に悩まされた.
停戦と国連の調停の後,ヨルダンは[ヨルダン川]西岸と呼ばれる地域を,エジプトはガザを支配したが,もともとのパレスチナ委任統治領の大部分はイスラエルの手に落ちた.
1947年にアラブが国連案を受け入れていれば得られなかった部分まで,イスラエルのものとなったのである.
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この戦争の結果,大量のパレスチナ難民が発生し,アラブ人の多くは屈辱感を感じた.
そして,それはこの戦争の結果の受け入れを拒絶し,イスラエルの正当性を拒否し,指導者たちは「汎アラブ主義」を盛り上げて,次の戦争ではイスラエルを滅ぼすことができるという信念を広めた.
1951年にヨルダンのアブドゥラー国王がイスラエルと単独講和をしようとしたが,彼は暗殺されてしまったのである.
・国連のパレスチナ分割案をアラブ側は拒否し,イスラエルの独立宣言を認めず,アラブ側から攻撃を仕掛けた.
・国連の分割案を呑んでいたほうが,結果的にはアラブ側に有利だった.
・第一次中東戦争は,イスラエルの勝利に終わったが,アラブ人たちは,この結果に屈辱感を感じ,次の戦争での勝利を欲した.
・ヨルダン国王がイスラエルと単独講和しようとしたが,暗殺された.
今回は,このあたりがまとめかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第一次中東戦争でイスラエルがあそこまで勝てたのはなんででしょうか?
当時の地図など見てみると,周り全てを囲まれて戦略的には絶望的に見えますし,武器がたらず戦車を他国からかっぱらったと聞いたので,武装は十分には思えません.
アラブ側の士気不足?
【回答】
ひとことで言うと,士気(戦争に対しての心構え)の差かと.
ここで負けたらそれこそ海に追い落とされるユダヤ軍と,どだい上からの命令でイヤイヤ戦わされてるアラブ軍とでは,装備の差が多少あろうと話になりませんでした.
加えて各国とも勝手な目論見で参戦してますから,統一行動がとれるわけもなく.
そもそも第一次中東戦争勃発当時は,今みたいな「イスラム対ユダヤ」というニュアンスは無くて(この図式もかなり人為的な後付けっぽいけど),(やや広い意味での)アラブ系地元勢力と新参の欧州からやってきたユダヤ系移民との戦争という感じ.
なので,イスラム教系の宗教関係者や各地域の為政者たちが「ジハード」を宣言しても,当時は「アラブ民族主義」の興隆のほうが圧倒的に強かったから,それに賛同する勢力はむしろ限られてしまう.
これだと主体がイスラム教徒中心になって,地元のシリア教会とかマロン派住民といったキリスト教住民はおいてきぼりを喰ってしまう.
結局,移民が大多数で「ユダヤ人だ!」と言う強力なアイデンティティがあって,行動が一本化しやすかったユダヤ勢力の方が士気も高かったけど,アラブ系などの地元住民はこれに対抗できるような自己の枠組みさえバラバラだったので,当然士気も行動も振るわなかったんだと思う.
ただ,ユダヤ軍もヨルダンのアラブ軍団相手には苦戦しています.
英国人のグラブ・パシャが指揮し,王家に忠誠を誓う精強ベドウィンで構成されたアラブ軍団は士気も高く,ウエストバンクやエルサレム旧市街はヨルダンの手に落ちました.
また,アラブ諸国は部族ごとに独立して国になった状態で,アラブ世界としてのまとまりにも欠けていました.
イスラム教徒が聖戦に燃えている,というのは根拠のないイメージに過ぎません.
イスラムの「聖戦」が何なのかをそもそも理解してない人は多い.
イスラム教徒の「聖戦(ジハード)」は異教徒を攻撃することではありません.
実際イスラム帝国が興ったときも,改宗を強要したり異教徒を迫害することはありませんでした.税金をかけただけです.
「聖戦」はイスラムの信仰を守るためにあるのです.イスラムが迫害されたとき,アッラーやムハンマドが冒涜されたとき,イスラム教徒は「ジハード!」と言っていきり立つのです.
ただ,実際にテロ行為を行うのは一部の原理主義者であり,それをイスラムの標準と考えるのは誤りです.
【質問】
先日のNHKスペシャル「エルサレム」で,第1次中東戦争の映像が流れました.
その中で,スツーカのような機体が映っていたのですが,実際に使われたのですか?
そして,これらはどこからのものでしょうか?
また,これ以外にどんな枢軸国側の兵器が使用されたのでしょうか?
【回答】
実のところ,イスラエル建国時には国軍というものが存在しなかったんですよ…
とはいえアラブ諸国との対決が間近に迫っていましたから,武装組織ハガナーを母体に軍隊を作ることになったんですが,旧宗主国の英国からはハガナーは非合法組織として取り締まりの対象になってましたので,ろくな武器を揃えることができませんでした.
1948年の時点で,どうにか兵員は9個旅団を動員できたんですが,その武器といえば,小銃…10000丁,短機関銃…3500丁,76.2ミリ迫撃砲…26門,50ミリ迫撃砲…672門これだけでした.あとは手製の火炎瓶とか.
空軍力といえば,ハガナがビーチクラフト・ボナンザ,ドラゴン・ラピード各1機,開戦時に保有していただけ(ボナンザは戦争中に更に2機購入).
んで,これじゃまともに戦えねーYO! ということで,イスラエル側は豊富なユダヤマネーを駆使して,欧州のあちこちの国から大戦終了で余った武器を買い漁ります.
モーゼルライフル,MP40,MG34,ブレンガン,PIATなど,元は連合軍,枢軸軍を問わず数多くの武器が持ち込まれました.
ドイツの兵器は主に,チェコスロヴァキア,ルーマニア,ブルガリアが売却しています.
例えば,シリアは,東欧諸国から4号戦車や4号駆逐戦車を購入していますし,イスラエルはチェコスロヴァキアから,第二次大戦中のBf-109G-14をチェコでライセンス生産したけれど,エンジンが無かったので,手近にあった爆撃機用のJumo210を搭載したC.199,C.S.199戦闘機を11機購入しています.
また,チェコからは同国で使用していたSpitfire戦闘機もイスラエルは50機購入しています.
近代戦には航空戦力が必須ですが,開戦当時イスラエルにはC47輸送機と旅客機2機程度しかなかったので,これまた急いで買い付けたものです.
他にもマスタングを4機,モスキートを9機,B-17を3機買い付けています.
あとは不名誉な手段なんですが…,英国からボーファイター5機,B-17×3機を映画撮影の為と言って借り逃げしたり,あるいは,民間で使うからと言って,南米へ向かう振りをして大西洋を横断,チェコで修理と補給して密輸したり,機械部品と偽ってボーイング・ステアマンPT-17カイデット練習機を20機買ったり(後に禁輸解禁後に更に30機購入),駐留していた英軍からシャーマン戦車を色仕掛けで盗み出したり.……必死だな(藁
S.199については,イスラエルは結構運用に苦労したようです.元々工作の程度が良くなかった上に低性能だったので….
Spitfireに関し,チェコから購入する前,不時着機の修理とか,廃棄された機体からでっち上げたとか,そんなこんなで3機は再生していますから,整備の腕が悪かった訳ではないと思います.
Spitfireは,エジプトでも使用していましたので,同じ機体が戦った訳です.
エジプトは基本的に英国軍装備で,各種英国製戦車,航空機を持っていました.
また,イタリアからは,Fiat G.59戦闘練習機(G.55のRRエンジン搭載型),Macchi
C.205Vなども入手しています.
まあそんなこんなで,イスラエルは第一次休戦まで持ちこたえ,時を同じくしてIDF(イスラエル国防軍)が組織され,国防は一本化されました.
貴重な時間を有効に活かし,さらに近代兵器を増強したイスラエル軍に対し,もはやアラブ連合軍は抵抗することはできず,事態は終戦へと向かいましたとさ.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2
イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME
イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw)
+
【質問】
包囲下のエルサレムを救った「ビルマ・ロード」とは?
【回答】
城壁の外にひろがるエルサレムの新市街には,10万のユダヤ人がいて,アラブ軍に包囲されながらも戦っていた.
そのエルサレム新市街への補給路を確保するために,六月一日からユダヤ機関が密か始めたのが,イスラエル建国の最大の叙事詩と言われる「ビルマ・ルート」の建設である.
これは,アラブの制圧する死の谷を迂回してエルサレム救援の山岳道路を切り開こうとするものであった.
このアイデアは,ある聖書学者が,聖書の中に「山羊の通る山道」があると記されていることを思い出したところから出た.
大勢の人々が動員され,夜,月の光をたよりに急斜面に道をつくる作業に従事したが,六月七日の時点でまだあと五キロが手つかずであった.
六月七日,エルサレム新市街のユダヤ人地区の備蓄も,あと三日分となった.
ベングリオンは,ユダヤ人地区の責任者から
「金曜日までに小麦粉が届かなければ,エルサレム10万のユダヤ人は餓死する」
との電報を受け取った.
非常事態に直面し,ベングリオンらはひとつの作戦を決行する.
それは,エルサレムの陥落をとどめるために,道のないところは人が荷物を背負って運ぶ輸送作戦であった.
ユダヤ機関は,この五キロの山道を毎晩20キロの食糧袋を背負って往復する600人の男を召集した.
一人の背負う小麦粉は,100人のユダヤ人の生命を一日は生き伸びさせるはずであった.
長い蟻のような行列が夜中の補給路となった.
ユダヤ機関の中で,ベングリオンの下にあったペレス元国防相は当時をこう語っている.
「イスラエルは寸断され,エルサレムは包囲されていました.
エルサレム新市街には,水も食糧もありませんでした.
私たちは,小麦や小麦粉を集め,真夜中に月明りをたよりに,小麦粉袋を背負って,山羊の道を運びました.道なき道は人間の背中が道になったのです.
軍の幹部もみな袋をかつぎました.エルサレムへの補給こそが戦いであったのです.
ちっぽけな国が四方から攻撃されて,散り散りになっていました」
「あの時,世界は・・・ 磯村尚徳・戦後史の旅<II> NHK取材班」より
【質問】
シリアで使用されていた4号戦車などの詳細を教えてくれないでしょうか?
【回答】
シリアは1946年仏より独立後,ブルガリア・ハンガリーといった東欧諸国やスペインなどからW号戦車・W号駆逐戦車・V号突撃砲等を,数は不明ですが購入しています.
これらの戦車のスペアパーツは,フランスにあった撃破されたドイツ車両のスクラップヤードから調達された部品でした.
しかし60年代にはパーツも尽きたのか,ゴラン高原に作られた陣地にトーチカ代わりに配備されました.
1965年のイスラエルとシリアの「水戦争」(ヨルダン川の水利を巡る紛争)において,W号戦車はゴラン高原からイスラエル軍に対して射撃を行いましたが,イスラエルのセンチュリオン戦車に対しては明らかに力不足でした.
生き残ったW号戦車は,さらに1967年の六日戦争でもイスラエル軍に対して砲撃を行いますが,ゴラン高原はイスラエルに突破され,最後のW号戦車がM50アイシャーマンに撃破されて,その生涯を閉じました.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【参考リンク】
http://www.axishistory.com/index.php?id=3519




CRS in mixi支隊他
【質問】
「しかしイギリスにパレスチナから手を引かせるため,そしてパレスチナの地からアラブ人を排除する為
,独立前後に,ハガナ・イルグンといった組織がテロ活動を行った事は広く知られています」
恐らくこれをダレッド作戦と呼ぶと思うのですが,これらについてイスラエル側の意見が全く聞かれません.
この問題はアラブ側のプロパガンダも多く混じっていると思われますので,簡単に信じるというわけにもいかず,イスラエル側の意見も聞いてみたいと考えているのですが.
【回答】
デイル・ヤシン村の虐殺については,当時のベングリオンがヨルダン国王に謝罪の書簡を送っていたかと思えば,当時のイルグンの指揮官だったベギン元首相が誇らしげに,あの作戦がなければイスラエルの独立はなかったとか発言したともあって,何が何やらよくわからない状態です.
イスラエルとしては,この辺の負の歴史は余り表にしたくないのが現状ではないでしょうか.
一応,イスラエル軍資料館に一連の出来事の資料はあるみたいで,Tanturaの虐殺については,その資料と当時,虐殺に参加した兵士たちへのインタビューを元にした論文が1998年に,イスラエルの研究者,Teddy
Katzの学位論文『いかにしてアラブ人たちは,1948年,カルメル河下流の村を去ったか』というので初めて公にされたのが事件以来,久々にイスラエルからの報告であろうと思われます.
彼にしたところで,この研究を終わりまで続けるべきかどうか,様々な葛藤があったと書いています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【珍説】
人口の5%しかいなかった(しかも2万人ちょっとしかいなかった)連中が,なんで土地を多く割り当てられるんだ?
国連を何ものが動かしたんだ? 五大国の拒否権もないまま,とおったんだろ?
ユダヤの実力すげーどころじゃないじゃん.
当時冷戦の直前で,1946年か7年の総会で,ユダヤ嫌いのスターリンはまだ健在だったし,
この時期は中華民国つまり蒋介石が国連の全権を持っていた時代だし,アメリカもマーシャルプランで欧州の復興,そして服属化をねらっていた.
ソ連も衛星国家建設つうか各国の王政を解体していて,確執ありまくりだぞ.
そこに決議案と中東戦争だ.
大国の思惑がないと思う方がどうかしているつーか不自然過ぎ.
【事実】
パレスチナを直接統治してたイギリスが,ユダヤとアラブの独立闘争テロに耐えかね,「なら勝手にせいや」と投げ出したのが大きい.
英国の後は,誰もそこにフォローしに行く事に利益を見出さなかった.
当時はまだ中東全域が仏英の事実上の植民地で,ソ連にしてもわざわざ介入するだけの余力も余地もなかったっつー事.
それどころか,ソ連は国内のユダヤ人が処分できて言う事なし.移住に物凄く熱心だったし.
要するに,ユダヤ嫌いのスターリン,毛沢東の戦争でそれどころでない蒋介石,共産圏うざいね赤狩りはじめようか?と考えているトルーマン,鉄のカーテン演説をしたばかりのチャーチルらが,自分達の思想,都合,二枚舌外交,ポクロム政策,シオニズムテロらをすべてアラブに丸投げした事が原因.
「国連が悪い」以外,なんと言い様がある?
◆◆◆スエズ戦争(第2次中東戦争)
【質問】
スエズ危機とは?
【回答】
1956年7月にエジプトのナセル大統領が,スエズ運河の国有化を主張したことに始まる,一連の事件.
元々スエズ運河は,19世紀に英仏が建設したもので,イギリスとインドを結ぶ,重要な交易路だった.
スエズ危機が起きた時には,イギリスの輸入の4分の1がこの運河を経由していて,イギリスは,ナセルのスエズ運河国有化に対し「ヒトラー」を比較対象人物として挙げ,危機感を募らせた.
ナイ教授は,その危機感についてこう解説する.
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イギリスの首相,アンソニー・イーデンは,この行為をイギリスにとっての重大な脅威と考えた.
彼はナセルを新たなヒトラーと見なし,1930年代との類推,すなわちヒトラーがラインラント進駐をした時にイギリスが何の行動もとらなかったこととの類推をした.
ナセルのアラブ民族主義へのアピールが中東におけるイギリスの地位を揺るがすのではないかと恐れ,また,ナセルがソ連製の武器を購入していることも懸念した.
この事件が冷戦中に起こったことを忘れないでほしい.
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1956年8月〜9月にかけて,英米はスエズ運河使用国連合なる組織を提唱して,スエズ運河の国営化はともかく,管理は運河を使用している国々に任せるべきだと主張した.
これに対して,ナセルは拒否を示したが,この間にイギリスとフランス,イスラエルは秘密裏に計画を立て,ナセルの教唆で「自衛と称して,国境を越えてのゲリラ活動に悩んでいたイスラエルが」これを口実として,エジプトに侵攻することになっていた,
さらに,英仏はそれを「スエズ運河における脅威である」として,介入の口実としようとしていた.
この筋書き通りにイスラエルはエジプトのシナイ地域に侵攻を行い,これについての正当性として,国連憲章第51条を持ち出した.
イスラエルがシナイ半島をスエズ方面に向かって侵攻すると,英仏は「運河の損害を食い止めるために,介入せざるをえない」と宣言した.
国連安保理では,この問題について議論し,英仏の口実を認めずに,停戦を求めたが,英仏は拒否権を使用して,停戦を阻止した,
英仏の目的はナセルの排除であって,それを実現するまで,介入を行うつもりであったのである.
これに対して,当時の国連事務総長である,ダグ・ハマーショルド(Dag Hammarshjold)は,カナダの外相レスター・ビアソン(Lester Pearson)と共に,国連平和維持軍をイスラエル軍とエジプト軍の間に投入することで,両軍を分離させ,交戦をやめさせる計画を立てた.
これによって,英仏はもはや,介入の口実を維持できなくなった.
国連総会では,拒否権が使用できないため,そこでの決議でシナイ地域への国連軍の派遣が認められた.
このときアメリカは,英仏を支持しなかった,
英仏の介入がアラブの民族主義者を怒らせて,中東におけるソ連のプレゼンスが増大する可能性を考えたからである.
このときアメリカは,逆に,ピアソン=ハマーショルドの案に賛成し,イギリスに圧力を加えるために,IMF(国際通貨基金)が,イギリスに借款を与えることを拒否した.
イギリスはポンド危機もあり,結局のところ,これに屈して,停戦合意を受け入れた.(なお,この当時,ソ連はハンガリー介入に手一杯だった)
ここでの英仏の行動について,ナイ教授はこう述べている.
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英仏が停戦を受け入れたのは,アメリカの圧力もあったが,彼ら自身が持ち出した法的口実に絡められてしまったことも理由の一つであった.
イスラエルとエジプトを引き離し,運河への損害を食い止める別の方法が生まれてしまったからである.
11月25日,シナイ半島の敵対勢力同士の間に初の国連派遣軍が投入され,12月末には国連が運河で沈没した船舶を撤去する任務についた.
国際法と国際組織の使用と誤用の典型が,スエズ危機を巡る政治の中心だったのである.
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詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第2次中東戦争について教えられたし.
【回答】
第2次中東戦争(スエズ動乱)は,いろんな意味で後世に影響を与えた.
特に惨敗したアラブ側では,このままじゃいかーんということで様々な改革運動が始まる.
エジプトでは社会主義の影響を受けたアラブ民族主義グループがクーデターを起こし,旧体制(王制)を打倒する.
トランスヨルダンは「戦利品」のウエストバンクを自国に併合しちゃうんだけど,これに怒ったパレスチナ人に国王が暗殺される.
エジプトの革命後,すったもんだあって実権はナセルが握る.
ナセルはスエズ運河の国有化を宣言.加えてソ連に接近することで,大量の軍事援助を引き出し,これに自信を得たナセルはチラン海峡を封鎖するなどイスラエルを挑発.
イスラエルは国是が「殺られる前に殺れ」なのでエジプトへの懲罰戦争を決意.
そこへスエズを奪われて頭にきてた英国が,運河の経営パートナーだったフランスを引き込んで,開戦と同時にスエズへ介入する密約を結ぶ.第二次中東戦争の始まり.
戦争自体はイスラエルがまさに無人の野を行く快進撃,英仏軍もスエズを抑えたんだけど,ここで激怒したアメリカが介入.お前ら何の勝手しとんねんということで3者を撤退させる.
とにかくは直接の軍事的脅威を破砕できたイスラエルはともかく,英仏は完全に面目を失い,逆に(列強の介入を撃退したということで)エジプトは大いに株を上げ,ナセルの主張する汎アラブ主義が世界を席巻することになった.
第二次中東戦争とは,1956年に起きた戦争である,
直接的な原因は,エジプト側からイスラエルへのゲリラ攻撃だが,より大きな原因として,エジプトのスエズ運河支配という目論見があり,英仏がこれに反発し,イスラエルと共謀して,エジプトを攻撃した.
1952年にエジプトのガマル・アブドル・ナセルら,ナショナリストが中心となって,ファルーク国王を打倒し,政権を奪取,ソ連からの支援を受け,スエズ運河の支配権を確立しようとすると同時に,イスラエルへのゲリラ戦を継続的にしかけた.
英仏は,エジプトの「スエズ運河支配」に懸念を抱き,イスラエルと共謀して,エジプトを攻撃した.
だが,ここでアメリカはイギリスへの支援を拒否し(ソ連との直接対峙を避けるため),国連の決議とともに平和維持軍が両軍を分離するために投入された,だが,平和条約は締結されなかった.
・第二次中東戦争の最も大きな理由は,エジプトのスエズ運河支配にある.
・英仏とイスラエルは共謀して,エジプトに攻撃を仕掛けた.
・アメリカはソ連との直接対峙を避けるために,イギリスへの支援を拒否した.
・国連決議によって,平和維持軍が投入され,戦争は終結させられたが,平和条約は締結されなかった.
まぁ,泥沼化へまた一歩という感があるな.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第2次中東戦争(スエズ戦争)についてお尋ねします.
@エジプトでは革命の結果ナセルが政権を掌握,彼は積極的中立政策を採用した.
Aその中でソ連の援助によってアスワン=ハイダムの建設に着手した.
Bこれに対して米・英の経済援助停止でもって対抗した.
Cこれに激怒したナセルはスエズ運河国有化宣言を表明.
Dこれに対抗して英・仏・イスラエル3国が出兵.(しかし,国際世論の批判で撤退)
という流れですが,この戦争に肝心の米の姿が出てきません.その理由はどうしてでしょうか?
【回答】
アメリカはそれほどエジプト介入に積極的ではなかった.
まず,スエズ運河に利権を持っていたのは英仏であり,アメリカではなかった.
そしてサウジなどのアラブ諸国がエジプト支持の姿勢を見せ,中東へのソ連の影響拡大を阻止するために彼らの支持をつなぎ止めておきたかった.
あと,ソ連が核兵器使用をちらつかせたというのもある.
結局ナセルも反共に回って共産主義者を弾圧するし(1958年以降).
そんなわけでアメリカはむしろ戦争反対にまわり,1957年には戦後の中東への経済・軍事援助を打ち出す一方,
イラクのバース党やサウジのファイサルを支援したり,ベイルートに海兵隊を上陸させて「赤化」を食い止めようとした.
【質問】
'04年4月の「ゴーマニズム宣言」で
「スエズ動乱を利用してアメリカはイギリスを属国化した」
みたいなこと言ってるけど,あれってどうなの?
【回答】
否定も肯定もしようがない論ですな.
論が「価値的に中立だから」というわけではないですよ.
具体的にどんなソースに基づき,アメリカのどんな政策を批判,非難しているのか?
それすら分からないのに批評のしようがないんですよ.
「GVL;ぅGGVDRL;KJ78いP7VBぅ,だからアメリカは悪いやつだ.」
これだと「アメリカは悪いやつだ」しか分かりませんよね.それと同じことです.
例えば,当時のイギリスは既に「勢力」というほどのものを持っていなかったと思いますが,作中ではインド以東を失っただけで,中東ではギリギリで勢力を保持しているように描かれています.
その根拠は不明です.作中でも触れられているバグダッド条約(機構)が根拠にされているっぽいですが.なんでも,当時の中東は大英帝国の生命線だそうで(苦笑).
確かに,スエズ運河とエジプトの英軍基地の確保が帝国の生命を支えると英国は考えており,それを保障する1936年条約を恒久化しようとしていました.
しかし,イギリスのエジプトでの立場は第2次大戦後には急速に弱まっていました.52年のエジプト自由将校団の革命後,54年にはイギリスの完全撤退を決定する条約が取り交わされています.(池田美佐子
from 「歴史のなかの開発」,岩波書店,1997/11/25,
p.159).
ちなみに,イギリス軍がエジプトから完全撤退したのは,スエズ危機の数ヶ月前です.
スエズ危機を待つまでもなく,中東における英国の影響力は殆ど失われていたのです.
「ロイド英国外相にダレス米国務長官は信じられないことを言った
『なぜ君達は徹底的にやって,ナセルを打倒しなかったのかね?』
ダレスこそが国際社会を率い,
あらゆる妨害を行ってイギリスを敗北に追い込んだ張本人だったのに」
という記述も,元ネタがありそうな印象ですが,これもソースは明らかにされていません.
さらに,
「ひとたびアメリカが本気で走り出すと,
イギリス政府は途端にスエズ・シンドロームが甦り,
全力でアメリカについていくしかなくなってしまうのである」
という記述も,コマ左奥に突進する米兵たちに何か訴えながら後を追う英国紳士たちの図と共に描かれていますが,具体的にどんな政策を指しているのかは分かりません.
それに,例えばフォークランド紛争の時,イギリスはアメリカの停戦案を蹴ったのですが.イギリスはどの「アメリカ」について行ったというのでしょう?
また,以下のような見方もあります.
アフ【ガ】ーン攻撃に当たり,ブッシュ政権内部では2つの考え方がありました.
1つは,米軍は軍隊の全勢力を注ぎ込んで戦う.テロ組織のみならずテロ支援国家やネットワークにまで戦域を広げて戦ったとしても,これを根絶できる十分な戦力をアメリカは持っている.そういう強硬派の考え方です.
もう1つは,初めから戦域を拡大したのでは,作戦目的が曖昧になり,実現できない.だからこそ目標を限定し,明確にすべきなのだという考え方です.
この2つの意見が,アメリカ政府の中でぶつかり合い,徐々に後者の意見が支配的になっていきました.それは国家安全保障担当のライス大統領補佐官が,パウエル国務長官に近い考え方をしたからです.
最終的には,最強の同盟国である英国,特にブレア首相が,この限定作戦に強く賛成したことが大きく影響したと考えます.
(森本敏〔安全保障問題専門家〕 from 「『新しい戦争』を知るための60のQ&A」,
新潮社,2001/11/15,P.49-50,抜粋要約)
その3コマ前では,
「英国の最大の外交課題は
米国との関係維持であり,
「あらゆる代償をいとわず,
イギリスの政策を
アメリカの政策に同調させる
ことが安全な道」という認識が
政権与党に広まった」
と書いていますが,これもどんな政策を同調させるのか書いてないので,全く分かりません.
さらに,小林のいう"政権与党"ってのが,保守党なのか労働党なのかも判然としないんです.
文脈からすれば,小林の言いたい政権与党というのは,イーデン政権やマクラミン政権時代の保守党の事なのでしょうが,現在のブレア政権は労働党なんですよね.
さらにまた,アメリカがイギリスに対して怒った理由に,ハンガリー動乱の隙を突かれたということがありますが,いっさいそれは触れられていません.
要は,
「メンツを失ったイギリスは,アメリカについて行かざるを得なくなりました.同盟なんか信じたらダメよ」
という話のようですが,「そこからじゃあどうするの?」という点に関しては,
「『親米』を利用して独立するなんて事はありえない!
イギリスのように,益々,属国化が進むだけだ!
韓国のように感情的な『反』ではなく,
独立自尊の精神を失わぬための,
作法としての『反』を我々は貫かねばならぬ!」
と纏めるだけで,具体的なプランも提示されていません.
普段,小林自身がやってることは,到底『作法としての「反」』には思えないレイシズム剥き出しのものであり,説得力があるとは思えませんし.
そしてまた,ドゴールの対中東政策を誉めてますが,あれはフランス国内でも受けは悪かったんですよね.
NATOも実際には北大西洋理事会・政治委員会・防空警戒管制システム等に参加してるし,アメリカと核兵器の技術情報交換協定も結んでいたりもします.
それらを見ても,フランスが自主独立外交と言えるかどうかは疑問です.
こうした,小林トリミングの技法を使えば,冷戦期のソビエトをアメポチにしたり,プエルトリコを独立自尊の国とする事さえ可能でしょう.
簡単に騙される馬鹿にだけ通じる書き方すりゃいいんだから,楽だよな.
(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo他 in コヴァ板・軍事板出張スレッド)
&(軍事板)
【質問】
スエズ危機が,フランスとイギリスの「国際法の誤用」によって,正当性を失ったというが,それまでイギリス・フランス・イスラエルは,エジプトに介入したではないか?
結局のところ,利害の対立の前では,国際法など無意味では?
【回答】
たしかに,決定的な利害の対立の前では,国際法では国家を縛れないが,その国の政策の方向性について影響を与えている.
「法律」が権力闘争の一部を担っているからだ.
ナイ教授は次のように説明している.
--------------------------------------------------------
政府自身が法律論をすることの重要性を認識しているという事実,国際組織の決議を考慮に入れているという事実は,国際法や国際組織がまったく意味のない存在でないことを示している.
1つ警句風にまとめてみよう.
「美徳保持のそぶりが悪徳からなされるとすれば,美徳にもそれなりの価値があることがわかる」
単純に言えば,政府は自らの法的な言い訳に足をすくわれることがある,ということである.
もう一つの例として,国連安保理決議242号がある.
この決議は1967年の中東戦争終結に際して通過したものであるが,戦前の国境への復帰を求めている.
長い年月の間,この決議によって,戦争中に獲得した領土をイスラエルが占領し続けることの正当性が否定されてきた.
この決議は,国連においてイスラエルを守勢に立たせた.
アラブ諸国家は戦争には負けたが,イスラエルに圧力をかけることができた.
1976年にアラブ諸国の連合が,国連からイスラエルを除名しようとした時,アメリカはこれを阻止しようとして,国連総会で大変な政治コストを払わねばならなかった.
このことからも,国際組織における正当性が権力闘争の一部をなしていることがわかるであろう.
--------------------------------------------------------
国家は,確かに自らの生存がかかっているときには,自らのもっとも有効な権力形態であり,強制力である「軍事力」を使用する.
この事実は,武力行使に対処する場合に国際法や国際組織が限定的な成功しか収められないことの説明にはなる.
麻薬取引・海洋での船舶衝突・特許侵害などは国際法に任せることができたとしても,国家の生存がかかる場面では,国際法に従うかどうかという話は,また別の話になる.
これこそ,WW1までの「集団安全保障」の問題点だった.
だが,国連憲章では,これを修正した形での集団安全保障システムを作り上げ,少なくとも国際連盟よりも,強制力を持たせることに成功した.
以上を纏めると,
・利害が決定的に対立した場合,国際法や国際組織は,これを抑制することはできないが,その過程や戦後処理などに当たっては,その政策に影響を与える.
・国際法や国際組織などの「正当性」は,権力の一部分を担っている.
・それを覆そうとすれば,大きな政治コストが必要となる.
ということになろう.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
◆◆PLO誕生以後
【質問】
PLOについて教えられたし.
【回答】
第2次中東戦争後,パレスチナの解放を目的として立ち上げられたのがPLO.
それとは別に,ファタハという組織が結成され,これがパレスチナ各地でゲリラ活動を行った.これの頭目がアラファト.
ファタハのゲリラ戦は中東全体の不安定化を招き,またもや緊張感が高まってゆく.
アラブ各国の要請もあって,エジプトはシナイ半島の国連監視軍を撤退させ,またもやチラン海峡を封鎖.
で「殺られる前に殺れ」のイスラエルは再び戦争を決意.第三次中東戦争が始まる.
奇襲効果もあってイスラエル軍は快進撃を見せ,ウエストバンク,ガザ,シナイ半島,ゴラン高原を占領する.
アラブ側は軍事的に完全敗北し,ナセルの権威は地に落ちた.
終戦後,それでもファタハはヨルダンを拠点にゲリラ活動を続け,いくつかの成果を上げる.
で,それを買われ,アラファトが正式にPLOのトップに選ばれるんだけど,PLOの下部組織が勝手に王制打倒運動を始めたのがヨルダン政府の激怒を誘い,精鋭ベドウィンで構成されるヨルダン軍とPLOの間で壮絶な内戦が始まる.いわゆる「黒い9月」.
ゲリラがガチで正規軍に勝てるわけもないんで,PLOはレバノンに逃げていく.
この内戦の仲介に奔走したナセルは過労もあって心臓発作に倒れる.
さて第三次中東戦争でビッグな占領地を得たイスラエルの国内では,あまりにも楽勝だったもんだから,
「これらの土地は神がイスラエルに与えたもうたものだ」
という考えが広まる.
20世紀に何を言ってるんだと突っ込まれるかも知れんが,もともとユダヤ人ってのは宗教を根幹に構成されてる民族であることを思い出していただきたい.
まあそれとは別に世俗的な思想では,
「パレスチナには既にヨルダンというアラブ国家があるじゃないか.だから残りの部分はイスラエルのものだ」
と考える人も増えてくる.
いわゆる大イスラエル主義だな.
この思想の実行,占領の既成事実化,防衛拠点の構築等,さまざまな目的から,イスラエルは占領地に続々と入植地を建設.
それに伴って既存のパレスチナ人の街やインフラを破壊したりする.自分らに都合よく線を引く為に.
当然パレスチナ人は怒る.特に難民キャンプで生まれた第二世代の若者たちがゲリラに身を投じるようになる.
当時は革命路線が華やかりし頃だったから,PLOの一部勢力はあちこちの極左勢力と結びつき,世界各地でテロやハイジャック事件を起こした.日本赤軍の岡本公三によるロッド空港乱射事件なんてのもあったな.
これに対してイスラエルは容赦なく報復(幹部の暗殺,難民キャンプへの攻撃など)したから,ますます両民族の憎悪は蓄積されていったのだった.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
なぜフセイニはPLO初代議長になれなかったのか?
【回答】
ナセルに嫌われたため.
ナセル・エジプト大統領はナセリズムと呼ばれる汎アラブ主義を打ち出していたが,アラブの団結を鼓吹するナセルは,ガザを支配権拡大の足掛かりにしようとした.
パレスチナの一部であるガザは,イスラエル建国に伴う1948年の中東戦争でエジプトに占領されていた.
アラブ高等委員会を率いるフセイニは,48年頃からガザに「パレスチナ政府」を根付かせようとしていたが,ナセルはパレスチナ解放闘争の再編を目指す.
カイロで64年1月に開かれたアラブ首脳会議は,PLO設立を決定.フセイニを嫌うエジプトは,このとき,サウジアラビアの元国連代表,アハマダ・シュケイリを初代議長に据えたのである.
4ヶ月後,PLO結成後初の「パレスチナ会議」が,東エルサレムのオリーブ山頂のホテルで開かれる.
この会議にフセイニは出席しなかった.
だが,フセイニの他にも会議をボイコットした人々がいた.アラファトが率いる武装組織ファタハがそれだった.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.79-80,抜粋要約)
【質問】
アラファトは,どのように権力を確立したか?
【回答】
PLO結成後初の「パレスチナ会議」を,アラファト率いる武装組織ファタハはボイコットした.穏健路線のシュケイリPLOは,しょせんナセルの政治的道具に過ぎないとアラファトらは読んだからである.
そして,その通りになった.
ほぼ3年後の第3次中東戦争でアラブ側はガザも西岸も失い,ナセルの力も衰えた.
するとアラファトはシュケイリをPLO議長の座から引き摺り下ろし,自分が議長に就任(69年)したのだった.
次いでアラファトはフセイニを封じ込める..
一時はフセイニと連携していたアラファトだったが,アラブ諸国の支持を失ったフセイニが,ムスリム同胞団などイスラーム組織の支持に依存したのに対し,PLO議長になったアラファト派,イスラーム武装組織と徹底的に対立.遂にはフセイニ・アラファトの亀裂も決定的なものになったためである.
こうしてパレスチナ解放運動の「顔」になったアラファトだったが,しかし,絶頂期は長くは続かなかった.
70年9月から71年にかけてのヨルダン内戦,いわゆる「黒い9月事件」によって,PLOはヨルダンから追い出される.
PLOはレバノンに逃れるが,今度はイスラエルのレバノン侵攻に遭い,レバノンからの分散退去を余儀なくされ,チュニスへ本部を移動.
その後の経緯は,各項目で述べられる通り.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.81-82,抜粋要約)
そして2004年11月,入院先の病院で死去.権力への妄執や,蓄財疑惑が囁かれるなど,晩節は決して誉められるものではなかったと言えよう.
【質問】
中東戦争で,エジプトのアスワン・ハイダムはイスラエルにペイント弾を落とされたとウィキペディアに記載されていたのですが,イスラエルはこのダムを破壊する事は考えなかったのですか?
【回答】
ペイント弾を落としたという話は都市伝説です.
日本語版のWikiにはその記述が残っていますが,元となった英語版では,その記述は事実ではないものとみなされ,削除されています.
【質問】
なぜナセリズムは衰亡したか?
【回答】
1967年の,6日戦争での大敗が主因.
非常に大雑把に書けば,
1967年のアラブ敗北
↓
マルクス主義流入による再編・人民闘争思想
↓
挫折
↓
イスラーム主義台頭
↓
↓(一部の先鋭化)
↓
イスラーム過激原理主義
といった流れ.
事実,6日戦争を境に,ナセル自身,宗教回帰したかのような政策がとられている.
すなわち,エジプトでは敗北の衝撃によって,民衆は宗教に慰めを見出したのだが,政府はその宗教心を取り込むことで権力維持を図っておる.
例えば,エジプト軍兵士にはジハードの意味や重要性,預言者ムハンマドによって戦われた数々の戦闘について記した文書が配布され,1968年4月には,ムスリム同胞団10万人が釈放されておる.
さらに外部要因(1969年7月のアルアクサ・モスク放火)が一層民衆の宗教心を刺激することになっておる.
これら動向をナセリズムと見なすことは,我輩には非常に困難なのである.
まあアラブ民族主義自体,ナセルの台頭→死と盛衰時期を共にしてますから.
すなわち,ヨルダンの9月内戦と,その収拾に奔走したナセルの「過労死」が,衰亡を決定づけたかな,と.
完全にトドメを刺したのは湾岸戦争であり,冷戦終結な気はします.
(イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw & イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
中東におけるアメリカの「代理戦略」とは?
【回答】
英軍の「スエズ以東から撤退しちゃうよーん」発表が1968年にされると,ペルシャ湾に危険な空白が生じることをアメリカは危惧しました.
なんたって大事な石油供給源.もし,その地が争奪戦に巻き込まれると,ちょーヤバイ.
でも,当時はヴェトナム戦争がピーク.アメリカには,その真空を埋める余力がありません.
「じゃあ,代わってイランとサウディアラビアに,西側の利益の『守護者』になってもらう」
で,1970〜78年だけで,アメリカはイランに200億ドル以上の兵器を売却.
でも,イラン革命が起こって,この戦略は崩壊してしまいましたとさ.
どっとはらい.
詳しくは,Michael T. Klare著「世界資源戦争」(廣済堂出版,2002/1/7),P.91-92を参照されたし.
なお,M. T. Klareは「平和と世界安全保障に関する5大学研究プログラム」理事.
【質問】
オマーン解放人民戦線とは?
【回答】
1960〜70年代,ドファール地方においてスルタン体制に反旗を翻した,左派ゲリラ組織.
しかし,1975年には鎮圧され,その後はテロ活動に移行した.
今日では冷戦終結の結果,イエメンが統合したこともあり,殆ど活動を聞く事はない.
当時の活動については以下引用.
総兵力2万人のオマーン軍が最も重視するのは,首都マスカットを除けば南部ドファール地方である.
ドファール地方はオマーンの〔,ホルムズ海峡と共に〕もう一つの傷つき易い地点と言ってよい.
この地方は山また山の山岳地帯であり,その山肌には褐色の乾いた土と岩に辛うじて背の小さな潅木が点々と散らばるだけである.
山間に幾本かの砂漠の川「ワジ」が流れる.しかし「ワジ」は,1年の僅かの期間を見舞う雨季に激しく流れる以外は,乾いた川筋に過ぎない.
アラブの人々はドファールを「アラビア半島の最も弱い肌」と呼ぶ.ドファールから国境線を越えると,そこは南イエメン(イエメン人民民主主義共和国)である.
〔略〕
かつて1960年代から70年代にかけて,このドファールの岩山にゲリラ勢力が陣取り,中央のスルタン体制に反旗を翻した.
それが「オマーン解放人民戦線」である.
南イエメンやソビエトの支援を受けていた彼らは,南イエメン領内のゲリラ基地から出撃し,オマーン軍を悩ませた.
しかしオマーン軍は1975年12月,「ゲリラ勢力の鎮圧に成功した」と発表する.
オマーンと南イエメンも76年,停戦協定を発効させた.
〔略〕
しかし,反政府ゲリラの活動が根絶されたわけではない.
1978年,サララから東に30キロのタカの海岸で,オマーン軍に働くイギリス人技術者五人が襲撃され殺害された.
翌79年にもほぼ同じ地点で,ニュージーランド人がゲリラ3人と18時間に渡って交戦し,殺害されるという事件が起きている.
サララは南イエメンとは国境線から約120キロほど離れており,襲撃事件の起きたタカはさらに遠い.
これは,武器を持った反政府ゲリラが依然オマーンの内奥に残存している事を物語っている.
佐藤健爾 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.118-120
【質問】
オマーン内戦とSASの関わりは?
【回答】
SASは60年代と70年代に多くの時間を費やして,オマーン首長の軍隊がマルクス主義者の長期的な反乱を平定するのに力を貸していた.
私〔Gaz Hunter〕の父は,その活動に深く携わっていた.
その紛争の勝敗を決した重要な戦いの一つで,SASは決定的役割を演じている.反乱軍の拠点であるラドファン山地に,不可能とされていた側から攀じ登り,敵の不意を突いて猛攻を加え,勝利をもたらしたのである.
親父は,その立役者の一人だった.
(Gaz Hunter 「SAS特殊任務」,並木書房,2000/11/1, p.92)
【質問】
1960年代のオマーンの紛争の中でも,「破壊してはならない」という不文律があったものとは?
【回答】
ファラジがそれである.ファラジとはアラビア語で地下水道のことで,ペルシャ語のカナート,アフガーンのダリー語のカレーズと同じもの.
オマーンのファラジは,2000年以上も前に,オマーンを支配したペルシャ人が持ち込んだ.7世紀にイスラームがオマーンに持ち込まれた時までに,ファラジは全土に1万ヶ所あったと推定されている.
ニズワ,バハラ,ルスタークなどの城には,地下深くにファラジの流れがあり,井戸により水を汲み上げたため,敵に包囲されても水に困ることはなかった.
今でも大小2000箇所以上のファラジが使用されている.
数十m置きに縦穴を掘り,穴の底(地下約30m.場所によっては60m以上)から横穴を掘って合わせて1本のトンネルにしたものだが,地盤が弱いオマーンでは,垂直の穴は掘れない.このため,縦穴はクレーター状になる.掘り出す土砂の量は膨大なものだ.
双方から掘り進んだトンネルを地下深くで一致させるのは,現代の測量技術でもかなり難しいが,ペルシャ人がどのようにして地下測量をしたのか,はっきりとは分かっていない.
カブース首長は,石油資源が枯渇して,再び農業に依存しなければならない日に備え,現存するファラジを維持するよう命令を出している.
(林茂雄「イスラムのシルクロード」,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.,抜粋要約)
◆◆六日戦争以後
【質問】
第三次中東戦争とは?
【回答】
1967年6月に起きた,通称「6日間戦争」と呼ばれる戦争.
この戦争は,その後の領土問題が形作られたところから,中東戦争の中でも,最も重要な戦争と言える.
エジプトのナセルとパレスチナ人たちは,ゲリラ攻撃でイスラエルに継続的にダメージを与えていた.
そして,エジプトはティラン海峡を封鎖して,紅海とイスラエルの海運を封鎖した.
この当時のナセルの行動について,ナイは以下のような分析を行っている.
--------------------------------------------------------
ナセルは,十分な戦争準備ができていたわけではないが,イスラエルとシリアの戦争の可能性が高まるとの観測を行い,もし両国間に戦争が起こればこれに参戦してもいいだろうと考えていた.
ナセルは国連に対し,平和維持軍をエジプト国境から撤退するように要求した.
イスラエルはナセルが戦争準備をしているのを見て,これを待つのではなく,先制〔攻撃〕することを決定した.
イスラエル軍は,エジプト空軍がいまだに地上にいる段階でこれを叩き,シナイ半島全域を占領したのみならず,シリアからゴラン高原を取り,ヨルダンからは西岸を獲得したのである.
--------------------------------------------------------
この段階で,米ソが介入して,両者に停戦するよう圧力をかけた.
1967年11月に国連安保理は,イスラエルが占領地域から撤退するのを交換条件として,平和と承認を得られることを求めた決議242号を通過させた.
しかし,この242号には意図的に曖昧な部分が盛り込まれていた.
この決議には「国連の公用語」として,数カ国版が用意されていて,その中には「すべての領土」ではなく単に「領土」と書いてあるものもあった.
つまり,一部は返還されないかもしれない・・・との意思が含まれていた.
さらに,パレスチナ人の地位についても曖昧で,彼らは難民として扱われ,「ネーション」すなわち「国民」とみなされなかった.
ここでも,「根本的な解決」とはならなかった.
・第三次中東戦争は,エジプトやパレスチナのゲリラ攻撃,ティラン海峡封鎖などが直接的な原因となった.
・イスラエルはナセルの戦争準備を見て,先制攻撃を仕掛けた.
・結果,米ソが仲介し,国連決議242号で,イスラエルの撤退が呼びかけられたが,これには曖昧な部分があり,火種は依然として残った.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第三次中東戦争(1967年当時)の,アラブ側,イスラエル側の空軍力はどれくらい?
【回答】
その当時,アラブ側はイスラエル側に比べて4倍の航空力を誇っていた,
ただし,錬度や運用面,連携などにおいては,イスラエル側が圧倒していたと言える.
以下,イスラエル・エジプト・シリア・ヨルダン・イラク各空軍の空軍力.
<イスラエル>
・ミラージュVC戦闘爆撃機66機(101,117,119の3個飛行隊)
・シュペル・ミステールB-2戦闘爆撃機35機(1個飛行隊)
・ミステールW-A戦闘爆撃機40機(2個飛行隊)
・ウーラガン戦闘爆撃機40機(2個飛行隊)
・スド・ボートゥール(Sud Vautour)UA戦闘爆撃機25機
・フーガ・マジステール練習機60機
<エジプト空軍>
・Mig-21戦闘機/邀撃機180機(9個飛行隊)
・Mig-19戦闘機80機(4個飛行隊)
・Mig-15およびMig-17戦闘機150機(5個飛行隊)
・Su-7B戦闘爆撃機30機(1個飛行隊)
・Tu-16爆撃機30機(2個飛行隊)
・IL-28爆撃機40機(3個飛行隊)
<シリア空軍>
・Mig-21戦闘機36機(2個飛行隊)
・Mig-17戦闘爆撃機90機(4個飛行隊)
・IL-28爆撃機6機(1個飛行隊)
<ヨルダン空軍>
・ホーカー・ハンターMk.6戦闘爆撃機22機
・F-104A戦闘機6機
<イラク空軍>
・Mig-21戦闘機20機(2個飛行隊)
・Mig-19戦闘機15機(1個飛行隊)
・Mig-17戦闘爆撃機20機(2個飛行隊)
・ホーカー・ハンター戦闘爆撃機33機(3個飛行隊)
・li-28爆撃機10機(1個飛行隊)
・Tu-16爆撃機12機(1個飛行隊)
【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),167-174ページ
【質問】
それだけの航空兵力差がありながら,イスラエルに追い詰められるアラブ合同軍が不思議です…………
【回答】
それに関しては以下の通り.
イスラエル国防軍/空軍は,他のアラブ諸国に先駆けてまず,エジプトの空軍力を集中的な奇襲攻撃作戦によって叩く計画を立てた.
1956年のスエズ紛争における英仏軍の攻撃で,エジプト空軍は空爆で打ち負かすことができることが実証されていた.
訓練や計画,迅速な整備及び再発進準備といった質的違いが,アラブ側の計画が1日2回の攻撃であったのに対し,イスラエル側はパイロット1人あたり1日6回の攻撃飛行を可能にした,
イスラエル側はまた,先制攻撃と効果的な情報活動という強みを持ち,これによって無駄な出撃を抑えながら,爆撃機と高性能戦闘機を格納している最重要航空基地を標的とすることが可能だった.
奇襲攻撃や1機当りの出撃回数,パイロットや支援要員の訓練の優位性が勘案すると,イスラエル対エジプトの航空戦力比はイスラエルに軍配が上がった.
イスラエルが及ばなかったのは,アラブ側の全空軍力が集結した場合に対してのみであった.
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),169-170ページ
つまり,アラブ側が勝っていたのは「ハード面のみ」であって,運用面・戦略・パイロットの錬度・後方支援体制,すべてにおいて,イスラエルはアラブ側を圧倒していたわけです.
まぁF1が何台揃ってようが,動かす奴が素人じゃぁ,ベテランの運転するスカイラインに負けるわな.
(from 『頭文字D』(うそ))
【質問】
第三次中東戦争を分析すると,どんな感じ?
【回答】
数で劣るイスラエルだが,先制攻撃作戦とパイロットの差や運用面,後方支援体制でそれをカバーしたと言える.
この戦争でイスラエルは,アラブ側の航空機451機を破壊し,このうち58機を空中戦で,3機をAAAで,それ以外は空爆で破壊した.
詳細は以下の通り.
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イスラエル国防軍/空軍は3297ソーティの出撃を行ったと報じている.
イスラエルのジェット機は,対地攻撃によってアラブ空軍に対し,猛烈な一撃を与えた後,地上部隊に対して効果的な支援を行った.
イスラエルは46機を失い,23機が重大な損傷を受けたと発表している,
失った航空機のうち,4分の3は対空砲火によるものである.
数年後,1973年から1977年までイスラエル空軍司令官を務めたペンジャミン・ペレド(Benjamin Peled)少将は,格闘戦で10機が撃墜されたことを明らかにしている.
その他の情報筋は,11機がアラブ軍戦闘機に撃墜され,1機が空中戦後に燃料切れによって失われたとしている.
乗組員の損失としては,24人が死亡し,18人が負傷し,7人が捕虜となった.
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イスラエルのパイロットは非常な優秀さを発揮した,
訓練では機動と30mm機関砲が重視された.
使用したミサイルはマトラ530とシャフリルで,シャフリルはイラクのTu-16 1機に損害を与えた(その後,高射砲で撃墜された)
イスラエルパイロットの優秀さは,以下の記述からも分かる.
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ミラージュVCはイスラエルの主力戦闘機であり,アラブ軍機撃墜の主役となっている.
また他のイスラエル戦闘機や戦闘爆撃機も,空中戦で大きな勝利を挙げた.
シュペル・ミステールはマッハ2のMig-21を撃墜しているし,亜音速のボートゥール・ミステールWでさえも,ホーカー・ハンター撃墜の記録を残している.
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この戦争において,イスラエルはMig-21を,中高度において優れた格闘戦用戦闘機と評価している,
Mig-21は,加速性能と旋回性能では,ミラージュVCよりも高性能だった.
ただし,Mig-21は損傷に非常に弱く,30mm機関銃数発で炎上または爆発してしまうことが多かったようだ.
Mig-17に対しても,旋回性能に優れているため,命中弾を与えるのが難しく,頑丈なので,撃墜するのに多数の弾を撃ち込まなければならない,
このため,Mig-17に対するイスラエルの評価は高いようだ.
アラブ側のパイロットについては以下の通り.
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アラブのパイロットは,戦闘機の性能限界まで使った戦闘を使わなかったため,イスラエルのミラージュVCに乗るパイロットは,15機のMig-21を含む48機を撃墜することができた.
イスラエルによると,イラク軍とヨルダン軍のパイロット技量は優れていたが,エジプト軍のパイロットは人によって技量に大きな隔たりがあり,シリア軍パイロットは一番低い,と判断されている.
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総括としては以下の通り.
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イスラエルは奇襲攻撃と高度の戦闘技術を持って,エジプト,シリア,ヨルダン,イラクの航空戦力を地上で撃破し,敵の数的優勢を覆し,アラブ軍の士気を瓦解させることに成功した.
この緒戦における攻撃に成功したため,イスラエルは航空優勢を手に入れ,直ちにイスラエル地上軍の進撃速度を高めることに貢献したのである.
もし航空優勢を得るために激しい空中戦が行われたとすると,双方とも疑いなく大きな損害を出し,戦争はもっと長引いたことであろう.
この戦争では,かなり新式の兵器が使われたが−マッハ2の戦闘機,滑走路破壊用爆弾,地対空ミサイル,空対空ミサイルなど−電子戦や新型ミサイルが重要な役割を果たすことはなかった.
結局のところ,6日間戦争は古典的な戦争で,細心の作戦計画と,激しい訓練,兵力の迅速な運用,そして戦術的イニシアチブの発揮が勝利をもたらしたのである.
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引用部分は『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),183−188ページ
【質問】
第四次中東戦争(消耗戦争)とは?
【回答】
1969年から1970年にかけて行われた,いわば消耗戦,後のヨム・キープル戦争の前哨戦と呼んでもいいかもしれない.
この時期に,ナセルは,ソ連の支持の元,スエズ運河の通行妨害などの「いやがらせ」をイスラエルに対して行い,これに刺激され,イスラエルとエジプトの間に数次に渡って空中戦が行われた,
しかし,この戦いは膠着状態となり,徐々に下火となった.
・第四次中東戦争は「消耗戦」であった.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
ゲリラ戦・コマンド部隊による襲撃,砲撃・航空攻撃がほとんどで,大規模な地上軍の動員が行われないのが特徴.
イスラエル・アラブ側双方ともに,戦力の建て直しと,立て直した戦力への攻撃がメインで,それがダラダラ続いたことから「消耗戦争」と呼ばれてる.
ただ,消耗戦争において,航空攻撃の発達は目覚しく,SA-2・SA-3といった対空ミサイルや,最新の電子戦システムなどが使用されたことは,特筆すべき.
エジプトは,ソ連から130機以上のジェット機を購入した(Mig-21FL・BFMなど)
イスラエルは,第三次中東戦争では,ほとんどの航空機を「航空攻撃」(空爆)で破壊したため,エジプト側のパイロット損失はそんなに大きくなかったので,かなり早期に戦力を立て直すことができた.
で,エジプトは,イスラエルの報復行動を引き出すために,シナイ半島へ限定的な航空攻撃を敢行.
この当時のイスラエルは,防空網が手薄で,この攻撃にはそれなりに損害を受けたようだ.
なお,有名な「エイラート号事件」(小型のミサイル艇が,イスラエルの駆逐艦を撃沈した事件)が起こったのも,この一連の攻撃中.
また,国連決議242が出されたのもこの時期.
国連決議242は簡単に言うと,イスラエルとアラブ側にDMZを作ろうということと,パレスチナ難民問題を解決しようというもの(ただし,意図的に曖昧になっている部分がある)
まぁ,消耗戦争ってのは,第三次中東戦争と第ヨム・キプール戦争の間の「準備期間」に行われた,相手への牽制と見ることも可能だろう.
ただ,準備期間と呼ぶには双方の行動は激しいので,〔ナイ教授などは〕「戦争」としてカウントしてるんだと思う.
ますたーあじあ in mixi,2007年05月30日21:43
ただしこの消耗戦を一つの戦争としてカウントし,第4次中東戦争と呼ぶのは,どちらかといえば少数派.
消印所沢
なお,キッシンジャーの「外交」でも「消耗戦争」を一つの戦争としてカウントしてました.
アメリカでは,少し日本と見方が違うのかも?
それとも,軍事的に見た場合と,政治的に見た場合の差かな?
ますたーあじあ in mixi,2007年08月06日22:12
【質問】
消耗戦争で使用された兵器ってどんなの?
【回答】
イスラエル側はF-4,A-4といった,当時最新鋭と言えるであろう戦闘機を使用し,また,地対空ミサイルホーク,対空対ミサイルであるAIM-9やAIM-7,そして国産ミサイルシャフリル2を使用した.
特にAIM-9(B,D,Eだから初期型)とシャフリルを使用したようだ.
ただし,この時点でのミサイルは「敵を先に見つけて」攻撃すれば当るという類のもので,相手の戦闘機動に対しては,あまり効果がなく,その場合は相変わらず機関砲が使用された.
また,ヘリコプターを使用しての敵陣地への爆撃などを行い,これが相手に対する抑止力と一定効果があったようだ.
コマンド部隊はナイル(Nile)にかかる2つの橋,変電所1箇所を破壊し,ナジ・ハマディ(Naj Hammadi)ダムに損害を与えた.
この強襲はエジプトを震撼させ,攻勢から防勢へと姿勢を転換させた.
以後4ヶ月,エジプトは顕著な砲撃攻勢を停止することになる.
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),196ページより
アラブ側は,Mig-21の新型(IFL・BFM)といった戦闘機の他,Su-7B戦闘爆撃機などを入手,地対空ミサイルSA-2・SA-3といった,強力な地対空ミサイルを使用した.(ほんの一部ではあるが,SA-6も使用している〔1970年8月3日に使用〕
これも数は少ないが,Su-15なども入手していた.
ヘリコプターもエジプトが4個飛行隊を保持してはいたが,イスラエルほど有効に運用できなかったようだ.
おまけ,
フランスから輸入禁止措置を受けたミラージュX(ミラージュVの簡易爆撃型)の代わりに,ネシェルを開発したのもこの時期,
この「ネシェル」にJ79(ファントムのエンジン)を乗せるなどして強化したのが「クフィル」である.
ますたーあじあ in mixi,2007年06月06日21:00
【質問】
消耗戦争時の,イスラエル,アラブの航空戦力はどんなもん?
【回答】
エジプトは,ソ連の支援を受けて,第三次中東戦争時の80%まで戦力を回復,
シリアは,それなりに戦力を回復,
イスラエルは,A-4スカイホークなどをアメリカから購入して,数はともかく,質はさらに高まった.
以下,航空戦力を以下に書くと
・エジプト
Mig-21 戦闘/要撃機 110機
mig-19 戦闘機 80機
Mig-17 戦闘機 120機
Su-7B 戦闘爆撃機 40機
IL-28 爆撃機 40機
Tu-16 爆撃機 20機
それに加えて
4個輸送機飛行隊
4個ヘリコプター飛行隊
+訓練部隊があった.
パイロット750人
訓練生 400人
・シリア
Mig-21 60機
Mig-15/Mig-17 戦闘爆撃機 70機
Su-7B 戦闘爆撃機 20機
イスラエル
ミラージュVC 戦闘機 60機(3個飛行隊)
シュペル・ミステールB2 戦闘爆撃機25機(1個飛行隊)
A-4Hスカイホーク 戦闘爆撃機48機(2個飛行隊)
ミステールW-A 戦闘爆撃機35機(1個飛行隊)
ボートゥールUA 戦闘爆撃機15機(1個飛行隊)
おまけ
消耗戦争時のエジプト陸軍
・550両のT-55
・300門の重砲
・450門の野砲
・1,200問の迫撃砲
・800両以上の軽装甲車
この装備を保有する6個師団のうち,3個師団をスエズ運河沿線に配備.
これは,シナイ半島西部において,イスラエルの20倍の戦力だった.
ところで,疑問
ミラージュXをフランスから輸出禁止されて「モサドが設計図を盗んで作った」という話があるけど(ネシェルのことだと思うが),これってどれくらい信憑性あるんじゃろ?※
ますたーあじあ in mixi,2007年05月31日22:59
※ほぼ事実と考えられています.
消印所沢
【質問】
エイラート号事件って何?
【回答】
六日戦争直後の1967/10/21夕,イスラエル駆逐艦「エイラート」を,エジプトのミサイル艇コマール型2隻がSS-N-2a「スティックス」対艦ミサイルを発射,撃沈するという大金星を挙げた戦闘.
以下,某自営業ふうに解説.
「艇長,スエズ運河西方,ポートサイド港沖にイスラエルの駆逐艦です.パロトール※のようです」
「やつら,もう戦争は終わったと思ってるな.エジプト海軍魂を教育してやるか.
『スティックス』ファイア!」
Bakoooom!
「命中!」
「まだ生きてるぞ」
「情け無用! ファイア!」
「敵は機関砲で迎撃してます!」
Zuh-dooom!
「敵艦機関部に被弾!」
「BRABO!」
2時間後.DD「エイラート」
「艦長殿,我々は脱出すべきです」
「散々だ,こいつは魔女のバアさんの呪いか」
「艦長,それは論理的ではありません」
「くそったれ,総員退艦だ!」
「警報! ミサイル!」
「何!?」
BAKOM!
「畜生! エジプト軍の反復攻撃だ!」
「艦長,エイラートが沈みます」
「戦友,助けてくれ!」
Vuoooo!
Zumm!
「わァァ!」
「何だ??」
「ミサイルの4発目です.海面の火に誘導されたようです」
「今のでだいぶん乗組員が死んだぞ」
「畜生,魔女の婆さんに誓って復讐してやる!」
満載排水量85tの小船が2300tの大型艦を撃沈したこの事件は,エイラート・ショックと呼ばれ,小国海軍を中心に高速ミサイル艇が売れまくることになった…….
だから決して誰かさんの言うように
「水平線の彼方から飛んできた4発のミサイルのうち,3発が相次いで命中.
2300tの『エイラート』は轟沈.
なにしろ,4発目が命中しなかったというのは,飛来した時,すでに標的が海中に没していたから,という凄まじさだった」
(林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.96-97)
とかいった,「4発連続発射⇒轟沈」という流れではなかったので,念のため.
【参考文献】
『図説 中東戦争全史』(学研,2002.10)
※ちょっと笑ったので原文ママ
消印所沢
>水平線の彼方から飛んできた
エジプト海軍はポートサイド港の中からミサイルを撃ってきたわけですが,エイラートはその港の哨戒監視行動中だったわけで,つまり水平線の彼方からではない.
そもそも,艦対艦戦闘で超水平線射撃をするには,衛星や味方航空機からの敵位置情報データリンクが必要なわけですが,コマール級にそんなリンク機能は無い.
水平線の彼方から・・・なんてのはあまりにも「詩的表現」過ぎます.
小説ならばそれでもいいのでしょうが,これは軍事学を銘打った本であり,戦史を語っている時に嘘を書いてはいけません.
「エイラート」轟沈の模様

(うそ)
【珍説】
そもそも4半世紀に渡って無視されてきたパレスチナに,今これだけ世界の注目が集まっているのは,1972年のミュンヘン・オリンピックで,PLOに属する8人のテロリストが,イスラエル選手11人を人質にし,殺害した事件がきっかけじゃないか!
小林よしのり『新ゴーマニズム宣言2 テロリアンナイト』 P.136
【事実】
過去25年の間にパレスチナはたびたび注目されてきました.
この本の著者は,「戦争論」なる著作物まで出している割には,入植地を巡る紛争も,オスロ会議も,湾岸戦争でフセイン大統領がどんなプロパガンダ攻勢に出たかも,インティファーダも,レバノン紛争の原因が何であるかも,それ以前の中東戦争も,ご存じないようです.
ちなみに第3次中東戦争(6日戦争)は1967年,第2次中東戦争(スエズ動乱)は1956年.PLOの結成は1964年,「ファタハ」のテロ活動開始は1965年です.
そのきっかけは第1次中東戦争(パレスチナ戦争)で,これは1948年勃発です.
【質問】
イスラエル海軍が子犬を実戦参加させたことがあるというのは本当か?
【回答】
フランスで建造されたイスラエル向けのミサイル艇が,フランスが武器禁輸措置を取ったため,シェルブール港に留め置かれたときのこと.
イスラエルの取った対抗手段は,ダミー会社を使って「北海油田の探査用ボートに」ミサイル艇を買い付け,フランスが気がつく前に,強行出航してイスラエルに向かうことだった.
艤装にかかっている間,「石油会社の社員」になりすましていたイスラエル乗組員の一人が,フランスの女とねんごろになったのだが,身分を明かすわけにもいかず,別れることになった.
このとき,女が乗組員に贈ったのが,テリアの子犬だった.
・・・が,この子犬に何か特殊な能力があることに,乗組員は気がついた.
わけもなく吠えだし,身体を震わせると,その後必ず,敵レーダーの逆探知装置に反応がある.
艇長はその後,ミルーと名づけたこの子犬を,実戦に同行させてみたが,少なくとも数回,逆探知装置の反応より先にミルーが吠えだし,戦闘において貴重なアドバンテージを与えてくれた.
最新鋭電子装置より,優秀な逆探知装置だったのが,テリアの子犬であった.
ソースは,
「ザ・モサド 世界最強の秘密情報機関」
デニス・アイゼンバーグ ユリ・ダン エリ・ランダウ
時事通信社
◆◆第4次中東戦争以後
【質問】
なぜトルコはキプロスに派兵したのか?
【回答】
トルコ首相,ビュレント・エジェヴィト Bülent Ecevit は当時,出身政党,共和人民党とは全く正格の異なる国民救済党と連立を組んでおったそうな.
その国民救済党に度々譲歩を強いられたエジェヴィットは考えた.
「そうだ,早期解散・選挙を行って,単独与党政権を樹立すればいいじゃん」
そのための人気取り政策に利用されたのが,折から緊迫の度を増していたキプロス問題じゃったげな.
ちょうどキプロスでは,1974年7月15日にはクーデターが起こり,初代大統領,マカリオス大主教が亡命して,サンプソン政権が全島を制圧しておった.
よおし,やったるべ.
そこで7月と8月の2度に渡り,島北部を軍事支配下に収めたのじゃった.
エジェヴィトの目論みは成功.トルコ国民はこの強硬政策を熱狂的に支持し,彼は一時期,国民英雄視される向きがあったげな.
ところがどっこい,事態を憂慮したアメリカが乗り出してきたのじゃった.
国連平和維持軍をキプロスに派遣する一方,75年2月4日には,トルコに対する制裁措置として,武器輸出禁止を決定したのじゃ.
この武器輸出禁止と,軍事援助停止,それにキプロス派兵による多大な出費(74年だけで13億ドルと算定されている)とが,この時期にトルコを襲っていた石油ショックの効果を倍増させ,将来におけるトルコの経済危機の引き金となってしもうたのじゃった.
エジェヴィトの,解散の目論みは外れて,74年9月に総辞職することになり,彼が再び政権の座に就くには,77年まで待たねばならなかったそうな.
万骨散って,将も散る…….
(永田雄三 from 「世界現代史11 中東現代史1」山川出版社,'82,抜粋要約)
また,ギリシャ系住民によるトルコ系住民の虐殺も要因です.
1950年代に,キプロスのギリシャ系住民の民族主義運動が一連のテロルを通じて,キプロスとギリシャの同盟<エノシス=ギリシャ本土への併合>を達成しようとした.
イギリス領キプロスのトルコ系警官の数は人口に比例せず多かったため,テロリストの格好の標的になった.
こうした状況の下で,イギリスはトルコがキプロス問題に介入するのを歓迎した.
それにより,イギリスはトルコとギリシャのバランスをとり,キプロスからの部分的な責任放棄を容易にできたからだ.
1959年から60年に,イギリス,ギリシャ,トルコの各政府は,独立キプロスが憲法を制定することで合意した.
憲法によって少数派のトルコ系住民は,国政への参加,居住地での自治,文化的権利の保護を保障された.
しかし,そうした妥協でよく発生するように,成立した統治システムは扱いにくく,トルコ系住民とギリシャ系住民の双方による拒否権の犠牲になった.
1963年になると,ギリシャ系指導者が抜本的な憲法修正に乗り出した.
いずれにしても,ギリシャ系の大衆は,歴史的権利からも多数派としての権利からも,キプロスは自分達のものだと信じていた.
その結果,政治的緊張が爆発し,トルコ系住民を対象とする虐殺が,広範囲に渡って発生した.
1964年には,トルコ系住民の半数が,キプロス全土の僅か1.6%の地域に押し込められた.21
もっとも,そこはトルコ系住民自身の地方政府によって運営されていた.
1960年憲法の保証人だったイギリスも,また,アメリカも,こうした状況を元に戻すために何も行わなかった.
その後も小競り合いが続き,やはりギリシャ系住民により,多くのトルコ系住民が犠牲になった.
さらに,1974年にはキプロスでクーデターが発生し,ギリシャ系指導者だったマカリオス大主教を退陣に追い込み,ギリシャとの同盟を宣言したが,ギリシャの軍事政権も威信を高めようとしてクーデター支持を表明した.
しかし,この時も英米や国際社会は何もせず,ギリシャは譲歩を拒否した.
この結果,トルコ政府は,1960年憲法の保証人としての権利を盾に,キプロスに軍事介入したのだった.
トルコの軍事介入の結果,キプロスの37%がトルコ系の支配下に入った.
14〜20万人のギリシャ系住民がキプロス北部のトルコ系住民の飛び地から逃れ,逆にトルコ系数万人が反対方向へと流れた.22
こうした事実上のキプロス分割は,依然として未解決のままで,25年以上経っても国際社会からは承認されていない.
それはまた,依然としてトルコとギリシャの主な対立点の一つである.
簡単に戦争へと発展する恐れもあり,バルカン半島や地中海東部全域での緊張を煽りかねない.
21 V.Calotychos (ed.), Cyprus and its People, Westview, Boulder, 1998: Calotychos, ch.1, p.7.
22 ギリシャ系住民のほうの数字は,まだ議論されている.
ギリシャ側の資料に基づき,カロティコスは,キプロス北部の故郷を去ったギリシャ系住民は,17万人から20万人に上ったとしている.Calotychos (ed.), Cyprus and its People, p.7を参照.
これに対し,概ねトルコ側の資料に基づき,C.H.ドッドは14〜16万人だったとしている.C.H.Dodd (ed.), Cyprus. The Need for New Perspectives, Eothen Press, Huntingdon, 1999, p.10.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.257-258
【質問】
トルコのキプロス侵攻の結果,対外関係はどうなったか?
【回答】
アメリカとの関係が悪化したという.
以下引用.
アメリカとの関係が一時悪化した時期もあった.
1974年7月,キプロスで起きた軍事クーデターを機に,トルコがトルコ系住民保護を名目に出兵した「キプロス侵攻」を巡ってである.
国連はトルコ軍の撤兵を決議,アメリカ議会も
「トルコ軍はキプロス侵攻に,アメリカが供与した武器を使用した」
と非難してトルコに武器禁輸措置をとった.
此れに対してトルコは,領内にある米軍基地を閉鎖,共同防衛協定を破棄して報復した.
だが,それ以上の関係悪化は,アメリカにとって許されなかった.
1979年1月のイラン革命,79年12月に起きたソビエトのアフガニスタン侵攻で情勢が一変し,トルコの持つ戦略的価値が一段と高まったからである.
80年1月,2億5千万ドルに上る軍事援助協定が結ばれ,アメリカはトルコ領内の12の基地使用が可能になった.
園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.203