◆戦史(〜1945年)
<中近東FAQ目次

【質問】
古代都市ウバル発見が中東に与える政治的影響は?
【回答】
サウディアラビアとしては,もしこれがクルアーンのイラムと同一都市と確認された場合,アラビア半島の守護者として困るらしい.
ウバルはBC3500年以上前に遡り,旧約聖書に名前が登場する.
最も栄えたのが紀元前10世紀.ソロモン王とシバの女王が活躍した時代に,オマーンのドハール地方にだけ自生した「乳香」の集散地だったらしい.
西暦150年発行のギリシャの地理学者プトレマイオスの地図にも,アラビア半島南部に大まかにウバルの地名が記されている.
「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」にもウバルの地名が登場する.
同書では,アラビア半島南部の砂漠の中に巨大な都市があり,城門を入ると素晴らしい建造物が軒を連ね,バルコニーや戸口の扉には金や銀の彫刻,真珠,宝石で飾りつけられた豊かな街が表現されている.
千夜一夜物語はササン朝ペルシャ時代に書かれたのが原型で,後にアラビア語に訳され,時代と共に加筆された.
ウバルはペルシャ語版に登場しているので,2〜3世紀に繁栄していたらしい.
また,クルアーン(コーラン)にも,アラビア半島南部に「この世に二つとないイラムの都」があったと記され,この都市は「柱の覆い町」と表現されている.ウバルとイラムは同じ都市というのが通説だ.
ところがウバルは,ある日突然,歴史から消える.街も人間も,砂漠のどこかに埋まってしまった.いつ頃かも分からない.中東の歴史の謎の一つだ.
オマーン諸部族の先祖と言われるアズド族は,紀元前2世紀にイエメンからドファール地方に移住したが,その部族伝説によると,街の繁栄は自分の功績だとウバルの王が豪語したのを怒った神が,一夜にして町を破壊したのだという.
消滅は,大地震か気候の激変によるとの説が有力だ.
20世紀になり,ウバルが実在したことが推定されるようになった.
1932年,英国の探険家バートラム・トーマスが,ルブ・アル・ハーリを調査した時に,明らかに人工と分かる道路跡を発見した.
幅は所により100m近くあり,古代の隊商路と推定された.
道は北に向かい,砂丘の下に消えていた.
遊牧民ベドウィン族は,この一部残存する古代道路跡を「ウバルの道」と呼んでいた事から,この付近にウバルがあったらしいという話になった.
1990年,スペース・シャトル「チャレンジャー」が宇宙から撮影した,ルブ・アル・ハーリのレーザー写真を分析したところ,サウジアラビア国境に近いオマーン領内に,トーマス氏が地上で発見した人工道路の存在を確認したばかりか,砂丘の下に埋もれていた道路跡のルートを浮かび上がらせた.レーザー光線の威力である.
その分析で,砂漠の別のルートがトーマス発見の道路と交差していることが分かり,その交差点がウバルだろうと推定された.
1991年秋から米英合同発掘隊の発掘が始まった.サラーラ北北西160kmの地点.
1992年夏までに,紀元前5000年に遡る土器などの出土品,ローマ時代の城壁,石柱などが発見され,古代都市の遺跡と確認された.
この古代都市がウバルであるとの確証はまだないが,状況証拠からは,まず間違いないと推定されている.
千夜一夜物語では,ウバルはナツメヤシが生い茂るオアシスの街だが,今の発掘現場付近には緑の樹木は一本もない.
なにかとてつもない自然現象が起こったのだろう.
ウバルはオマーン領で発見されたが,面白くないのはサウディアラビアだ.もしこれがクルアーンのイラムと同一都市と確認された場合,アラビア半島の守護者として困るらしい.
サウディアラビア当局は,
「発掘現場からは,ウバルやイラムの確証となる出土品は何一つ出ていない」
と否定的な見解を表明している.
ウバル発見と前後して,オマーンでは,乳香の集散地として知られる「サッファラ・メトロポリス」跡と推定される遺跡が見つかった.サラーラ東北東40km,アイン・フムランにある.
これもプトレマイオスの地図に名前はあるが,位置がはっきりしなかった.
ここからも土器,建造物跡などが見つかったが,オマーンの砂漠は考古学の処女地と言えるようだ.
詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』(芙蓉書房出版,1997/1/25), P.140-143を参照されたし.
なお,2001年12月に朝日新聞社から出版された「アラーが破壊した都市」に寄れば,ウバール滅亡の理由は地下に生じた巨大な空洞に街の数割が沈みこんだためとの事.
【質問】
エリンてのはテーベ軍が作ったやつのこと?
【回答】
エリンは古代シュメール文明ウル第三王朝で生まれたと「戦略戦術兵器辞典3」に書いてある.
紀元前2060〜2950年ごろとのこと.
もともとは集団労働組織で,これを軍事組織に転用したようだ.
【質問】
伝説ではトロイ戦争(BC1360頃)の引き金となったとされるヘレネーとは,どんな女性だったか?
【回答】
山岸凉子はその作「黒のヘレネー」の中で,ヘレネーを演技性人格の持ち主として描いている.この作品の中でのヘレネーにとっては,トロイへの逃亡を含む様々なエピソードも,常に自分自身を物語の中心に置きたい欲求の成せる業に過ぎない.
一方,中近東ガイドの星川清香は,その著書「糸杉の墓」(築地書館,1997/5/20)の中で,
「当時の徹底した男性社会を知らなければ,彼女が踏み越えなければならなかったバーの高さを知ることはできない」
と,ヘレネーを弁護,彼女を男性社会への反抗者であるという見方を示している.
これほどかけ離れたヘレネー観を示している,この2人の女性が,ヘレネーの姉,クリュタイムネーストラについては従来の「悪女」観を否定しているのは興味深いところである.
クリュタイムネーストラを娶るため,アガメムノン王は,彼女の夫と赤子を殺して無理矢理彼女を手に入れた,という点が同情を呼んだのだろうか.
【質問】
実際には,なぜギリシャはトロイに侵攻したのか?
【回答】
ヒストリー・チャンネルに出演したペンタゴン・スタッフによれば,ギリシャには元々勢力拡大の意図があった.
トロイは交易上の要地であり,拡大政策を取るギリシャにとっては戦略上の重要拠点だった.
そこで,ヘレネーの事件を口実に,侵攻を開始したのだった.
+
【質問】
アガメムノン王は,トロイ遠征の前に,何を神への生け贄として捧げたか?
【回答】
星野清香によれば,
王の長女イピゲネイアをアルテミス神への戦勝祈願の生け贄として殺した.
そうするために,王はイピゲネイアを,アキレウスとの縁談が整ったという虚言で誘き出している.
という.
(「糸杉の墓」,築地書館,1997/5/20,p.127を参照されたし
【質問】
トロイを発掘したシュリーマンが,トルコでは良い印象がないのは何故か?
【回答】
発掘の際の行状が,およそ誉められたものでないから.
星野清香は次のように述べている.
現代のトルコ人はシュリーマンの業績を評価しながらも,彼をスラグマー(密輸出人)と呼ぶ.
シュリーマンは,プリアモス王の黄金以外のものに一切,興味を示さなかった.
そしてトロイの遺跡を無秩序に掘り起こし,金以外の物は皆,捨ててしまい,見事に刻まれた城壁の石は皆,近所の百姓に売ってしまった.
彼はプリアモスの金と思われる物を手に入れると,それを誰にも知らせずにギリシャに持ち出し,さらにベルリンに運び出した.ちなみに,それらは今次大戦の爆撃で,全て四散してしまった.
そのために現在,トロイ人およびトロイに対する研究は一歩も進めることができなくなっている.
なお,彼が発見した金はプリアモスの金ではなく,ずっと古い時代の物だと現在では分かっている.
A. ホワイトは「埋もれた世界」の中で,シュリーマンやボッタやローリンソンの業績を紹介して,同じに彼らの発掘を阻止しようとした現地の役人を,容赦なく悪者扱いにしている.
しかし,私から見ると,シュリーマンやボッタのやっていることを胡散臭いと考えた,現地の連中こそ正しかったのだ.トルコやイラクの立場から言えば,シュリーマンやボッタこそ,現地の無知をよいことにして,勝手なことをやった悪い奴らだと言うことができよう.
トルコなどでは今でも,外国人の発掘は非常に難しいと聞いている.つまりヨーロッパ人の発掘隊が,彼らの心に解き難い疑いを植え付けてしまったからだ.
(「糸杉の墓」,築地書館,1997/5/20,p.)
【質問】
ダリウス大王のなした軍事的革命とは?
【回答】
幹線道路整備と騎馬軍団の組織化.
まず,道路.ユーラシア大陸中央部に築き上げた大帝国を貫通する幹線道路を造った.西方には,ペルセポリスからバグダードを経て,チグリス川沿いにトルコを東西に貫いてエーゲ海に達していた.
東方には,イランからアフガーニスタンを経てカーブルで南北に分かれ,南はインドに,北は中央アジアに達していた.
これは通商路と軍事道路を兼ねていた.1日の行程である20-30km間隔に宿場を大王は設けた他,川には渡し場を,治安の悪い地域には城を築いて旅の安全を保障.
重要な地域の道路は石で舗装し,馬や馬車のスピードを早めた.
この幹線道路の完成で,それまで1ヵ月以上かかっていた距離が,僅か7日に短縮されたという.
軍事的にはまた,騎馬軍団を初めて組織的に作り,それを広範囲に短時間で動かすことで,それまでの軍事的常識を破ったが,それも,この幹線道路が可能にしたことだった.
詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』(芙蓉書房出版,1997/1/25,) P.74-75を参照されたし.
【質問】
「マサダの砦」とは?
【回答】
険しい岩山ヘロデ王山の上の城砦.
紀元前100年頃,ユダヤ教の大司祭ヨナタンが築き,後にヘロデ王が宮殿に建替えた.
紀元70年,ローマ軍はエルサレムを占領,ユダヤ人反乱軍掃討作戦を展開した.
マサダ砦には,エルサレムから逃れた,女性・子供を含めた1000人以上の反乱軍が立て篭もり,数では圧倒的に優勢なローマ軍団相手に,3年間に渡る篭城戦を行った.
ローマ軍は山肌を削り,戦車が近付ける道を作って攻撃した.
落城寸前,指導者エルアザル・ベン・ヤイルに率いられた967人のユダヤ人は,全員が自決して果てた.
詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』(芙蓉書房出版,1997/1/25,) P.190-191を参照されたし.
【質問】
ディアスポラ(離散)とは?
![]() アッシリアの破城鎚 |
【回答】
国土を喪失したユダヤ人が,世界中に散ったことを指す.
元々ユダヤ人はメソポタミア文明の頃に出現,ソロモン王が統治するヘブライ王国として全盛を極めた.
だが,ソロモン王が死去すると王国には内紛が起こり,イスラエル王国とユダ王国とに分裂.
その後,イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ,現在のエルサレムを首都としていたユダ王国も,紀元前586年,バビロニアの侵攻により滅亡.
その後,国家は再建されるが,
紀元前63年,ポンペイウス侵攻により,ユダヤ地域をローマが支配するようになり,
紀元前37年,親ローマ的なヘロデが王座につき
西暦6年,属州ユダヤ成立.
西暦63年からユダヤ反乱が始まり,
西暦70年,ローマ軍によってエルサレム市街と神殿が完全に破壊される.国土が完全に廃墟になったことにより,ユダヤ人は国家再建のすべもなく,世界中に散っていくことになる.これがディアスポラの始まり.
西暦135年,とどめにユダヤ人がエルサレムから追放される.
なお,ソロモン王が築いた城壁の,今日の僅かな残存部分が,エルサレム神殿の「嘆きの壁」と呼ばれるものである.
詳しくは『大人の参考書 「中東問題」がわかる!』(青春出版社,2001/11/10),p.69-70を参照されたし.
【質問】
ヨセフ・ベン・マティアスとは?
【回答】
1世紀の歴史家.別名,フラウィウス・ヨセフス.
66年のローマに対するユダヤ人反乱を指導し,ウェスパシアヌスに捕らえられたが,彼が皇帝になるという予言が実現したために釈放された.
主な著作は「ユダヤの戦い」(77-78)
(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.261訳注)
【質問】
パルミラは何故破壊されたか?
【回答】
強力な武力を生み出す交易の力を,ローマ皇帝が恐れたため.
260年,ササン朝ペルシャのシャープール一世は,ローマ軍を破ってオリエントを支配するが,パルミラの有力者オダイナトスは精強な弓兵部隊を率いてペルシャ軍を破った.
この功績で彼はローマ皇帝からオリエントの支配権を認められるが,「王の王」を自称するようになってローマ皇帝の激怒を買い,長子と共に暗殺された.
王妃ゼノビアが王位を継ぐが,女王はエジプトに進出,小アジア全域を支配下に置いてパルミラ帝国成立を宣言.しかしローマ軍に敗れて捕虜となる.
女王はローマに身柄を連行されたが,その後の運命は定かではない.
同時にローマ皇帝アウレリアヌスの命令で272年,神殿を除き,パルミラは破壊されることとなる.
詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.199を参照されたし
【質問】
「ハトラの火矢」とは?
【回答】
パルティア王国の商業都市,ハトラで使われた,タールに浸した火矢のこと.
以下引用.
アッシュールの西,〔略〕ハトラの町は,パルティア王国を横断していたキャラヴァン・ルートの宿駅都市として,1世紀頃から栄えていたことははっきりしているのだが,町のできた年代ははっきりしない.
アッシリア帝国が滅亡した後,アラビア半島から移動してきたベドウィン人達が,ここに,アシュタルテ神やシャマシュ神など,豊穣神や太陽神を衷心とする神殿を建てて,住みついたらしい.
だから住民はアラブ人で,パルティア王国内にありながら,政治的にはかなり独立していた.
2世紀初頭にはトラヤヌス帝が,また,3世紀に入るとセプティミウス・セヴェルス帝が,それぞれローマ軍を率いてパルティアに遠征し,ハトラを包囲したが,堅固な砦に守られた住民が,タールに浸した火矢を放って抵抗したので,攻略できなかった.
このときの住民側の戦術は「ハトラの火矢」と呼ばれて,後世にも伝えられた.
しかし,それほど堅固なハトラも,270年に,ササン朝ペルシャの皇帝シャープール1世の前には,遂に屈伏した.
「朝日旅の百科 海外編21 イラク・アフガニスタン・パキスタン・湾岸諸国」
(朝日新聞社,1981/6/20),p.1618-1620
【質問】
ムハンマドが現れるまでは,アラブ地域の人達は,どんな宗教,宗教観を持ってたのですか?
【回答】
イスラム誕生前の中近東の宗教情勢を簡単に御説明しますと,
ユダヤ教=パレスチナ,アラビア半島,イエメン,ティグリス河流域
キリスト教(正統派)=パレスチナ,シリア,小アジア
〃(単性論派)=パレスチナ,エジプト,アビシニア,アラビア半島
〃(ネストリウス派)=ユーフラテス河流域
ゾロアスター教=ペルシア
てな感じですか.
70年のティトゥスによるエルサレム破壊の後,多くのユダヤ人たちが当地を離れ,隊商路に沿ってアラビア半島内部へと移住しました.メディナ(ヤスリブ)などは,もともとはユダヤ人が作った街だったりします.
彼らは自身の才を活かし,独自の閉鎖的な社会を維持しつつ,商売や農業に精を出し,それなりの勢力を築き上げました.
(ムハンマドはこれらユダヤ集団に片思いを寄せ,したたかに振られるわけですが)
またキリスト教も宣教には熱心で,特に正統派からは異端とされた,単性論派(モノフィジート)やネストリウス派がアラブへの布教を積極的に進めています.
イエメンにあったヒムヤル王国の最後の王,ズー・ヌワースはユダヤ教に改宗した上で,ナジュラーンにおいてキリスト教徒2万人を虐殺,これに怒ったアビシニア王国(単性論派)が海を越えてイエメンに侵攻,これを滅ぼすなんてこともありました.
メッカが多神教を奉ずるクライシュ族の支配下にあり,カーバ神殿が偶像でイパーイだったのは有名な話ですね.
ただ,周囲のユダヤ教やキリスト教の影響を受け,漠然とした一神教を信仰する人々も存在したという説もあります.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
なぜモスクにミナレット(尖塔,あるいは光搭)があるのか?
【回答】
イスラーム教の故事に因むとする説がある.
ムハンマドがイスラーム軍を率いてアラビア半島を転戦していたとき,礼拝の時が来ると,軍隊をデーツ(ナツメヤシ)が茂るオアシスに止め,手足を洗って礼拝した.
当然,武装を解くことになる.
そこを敵兵に狙われないために,デーツの樹に見張りを登らせて警戒した故事に由来するとの説がある.
時代が下がって礼拝所が建造物になっても,モスクには高塔を築いて見張りを置いたのが,いつしか宗教建築上の形式になったようだ.
高塔の先端には,夜になると灯が置かれ,大平原を行く旅人の灯台の役割を果たすようになった.
詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.113を参照されたし
【質問】
ミスルとは?
【回答】
ミスル(軍営都市)とは,イスラームが征服地の治安維持のために軍隊を駐屯させた場所で,通常はアラビア・アラブ人(アラビア半島各部族)だけが居住を許された.
現在アラビア語でミスルといえばエジプトのことだが,これもフスタート(カイロ)にミスルが置かれたことに由来する.
ミスルはカイロ方言でマスルとも言われ,通常はエジプトを意味する固有名詞になった.
なお,イラクのバスラは,アラビア半島を制圧したイスラーム勢力が,アラビア半島以外の地に建設した最初のミスルである.
詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.115を参照されたし
【質問】
なぜイスラーム教徒にとってもエルサレムは聖地なのか?
【回答】
ムハンマドに関する伝承に基づく.
イスラーム教には荒唐無稽の奇跡は少ないが,唯一の非合理的な伝説がイスラーである.
ムハンマドがアラーの力を借り,一夜の内にメッカからエルサレムに空を飛んで着陸したのが,エルサレムにある聖なる岩の上だったと伝えられる.
ユダヤ教とキリスト教の雰囲気が濃厚だったエルサレムの街を,急速にイスラーム化する必要から作られた伝説だろうが,ハディース(ムハンマド言行録)にはイスラーム教徒の義務として,
「旅に出て3つのモスク(メッカ,メディナ,エルサレム)を訪れよ」
と書かれている.
この聖なる岩だが,旧約聖書の創世紀によると,ユダヤ民族の祖先のアブラハムが息子イサクを神の生け贄に捧げようとしたのが,この岩の上だったと伝えられている.
古代イスラエル王国のソロモン王は,紀元前10世紀に,その岩のある場所に神殿を建てて,岩を崇拝した.
前6世紀にエルサレムに侵入した,バビロニアのネブカドネサル大王に神殿は破壊されたが,前20年にヘロデ王が再建した.
ヘロデ王は,岩を中心にした王城を築いたが,約100年後にローマ軍により破壊され,ユダヤ人はディアスポラ(放浪)の時を迎える.
ちなみに,この王城の西側の現存する城壁が,今日「嘆きの壁」として知られている.
また,この聖なる岩は,キリスト教時代にも信仰の対象にされている.
詳しくは,林茂雄著『イスラムのシルクロード』,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.174-175を参照されたし
【質問】
ムハンマド暗殺未遂事件の経過は?
【回答】
623年にムハンマドはユダヤ教徒に2度,命を狙われ,その後,偶像崇拝のクライシュ族との闘争の原因になった.
以下引用.
クルアーンを手にしたムハンマドは,その内容を実践に移した.
これは,偶像を崇拝し,富を集めて奢侈(しゃし)に耽っていた支配者クライシュ族にとって,都合の悪いことであり,ムハンマドと彼に従う人々=モスリム(イスラム教徒)を迫害した.
そこで一時,ムハンマドはイビシニア(エチオピア)まで逃れたりした.
迫害に続いて,ムハンマドは暗殺の危機に見舞われる.
623年,ユダヤ教のサーサ部族から,イスラムに改宗したいという申し出があり,ムハンマドらモスリムが赴いた.
だが,サーサ族は実はムハンマドの暗殺を狙っていた.
ムハンマドは行かず,代わりに赴いたモスリム40人は全員殺された.〔略〕
そこで,クライシュ族はムハンマドの暗殺を計画し,メッカ中の豪族から,1部族につき1人の刺客を選んで差し向けた.
ムハンマドは側近のアブー・バクルと脱出し,自分のベッドにはアリを寝かせておいた.
刺客達はムハンマドのベッドでアリを発見して,ガッカリした.
以後,メディナを根拠地とするムハンマドらモスリムと,メッカのクライシュ族との間で闘争が始まった.
(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」,
光人社文庫,2002/1/18,p.102)
【質問】
ハワーリジュ派とは?
【回答】
第3代カリフ・ウスマーン(656年没)の統治期には,アラブの「大征服」がやや停滞する一方,カリフの一族であるウマイヤ家の同族重用が進み,一般ムスリムの不満が高まった.
結果としてウスマーンは,直訴に来たエジプト駐留軍に殺されてしまう.
続く第4代カリフにはアリーが就任したが,ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤはこれを認めず,イスラーム共同体は初の内戦に突入.
657年,両軍はユーフラテス河畔のシッフィーンで戦ったが,戦局は膠着.
双方が調停による解決を図ることになる.
この時,アリー軍の一部が調停に反対し,戦場から離脱.彼らが「ハワーリジュ派」である.
イスラーム史上最初の宗派である彼らは,ウスマーン以降のカリフを全て大罪人・不信仰者と見なし,その排除を訴えた.指導者の不正を見逃せば,共同体全体が道を誤ることになると考えたからである.
そもそも彼らがアリー軍に加わった理由は,単なるアリー支持ではなかった.
彼らはまず,ウスマーンを神の命令たる公正さを欠いたがために悪と見なし,悪を支持するムアーウィヤもまた悪と信ずればこそ,アリー軍に加わったのである.
だが,悪と取引するアリーもまた,彼らにとっては今や悪=敵となった.
彼らは翌年,アリー軍と戦い,数百人を残して全滅するが,661年にはアリーを暗殺.その後もウマイヤ朝に対する攻撃を繰り返した.
ハワーリジュ派は信仰すなわち行為と考え,敬虔なムスリムであれば誰でもカリフになる資格があると主張.
その一方,ウスマーン以下は大罪を犯した結果,既にムスリムではなく,不信仰者となったと断定された.
ハワーリジュ派内の過激派であったアズラク派に至っては,ウスマーン以下の不正を正すために行動しない者もまた罪人とし,自派以外は全て殺害すべしという極めて過激な思想を展開したと言われている.
だが,こうした思想はスンナ派からもシーア派からも「異端」と見なされ,やがて消滅した.
現在では,ハワーリジュ派の穏健派で,他宗派への攻撃原理を棚上げしたイバード派が,オマーンとアルジェリアの南部などに残るのみである.
(飯塚正人=イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.55を参照されたし
【質問】
カルバラーの戦いとは?
【回答】
マホメットの孫にして第3代イマーム,フサインがウマイヤ朝に誘き出され,憤死した戦い.
以下引用.
初代イマーム〔人類の指導者〕はマホメットの従弟で,娘ファーティマの夫でもあるアリーである.
アリーは,イランでは時にマホメットに匹敵する位置を占める.
その子,すなわちマホメットの孫に当たる2人の男子の内,兄が第2代イマームになったハサン,弟が第3代イマームになったフサインである.
アリー暗殺後,ハサンはカリフを名乗ったが,シリアの太守ウマイヤ家のムアーウィヤとの抗争に利あらず,将来,弟フサインにカリフの地位を返還する事を条件に,ムアーウィヤと妥協した.
ムアーウィヤは権勢並ぶ者なくなり,ウマイヤ朝を樹立した.
しかし,彼はその後,ハサンとの約束を破り,フサインにカリフの座を返還しなかった.
その後,フサインは,クーファの住民から要請を受けた.ウマイヤ朝の支配を排除するため,出馬して欲しい.
フサインは勇躍イラクの地に乗り込んだが,待っているはずのクーファの民は,そこにはいなかった.
フサインは誘き出されたのだった.
引くに引けなくなったフサインは,ウマイヤ勢に包囲され,衆寡敵せず,遂に全滅した.
これが,イラン人の熱心な信徒が,涙と共に語るカルバラーの悲史である.
ときに,回教暦61年(西暦685年)ムハッラム10日の事だった.
今日,ムハッラムの月が来ると,イランのシーア派住民は黒の弔旗を掲げ,タクシーも小さな黒の弔旗を立てて走る.
我と我が身を打ち叩き,小躍りしながら,黒い旗を翳した数十人の行列が通る.
「アリー! ハサン! フサイン!」
と,口々に叫び声を上げ,鎖や刀で胸や肩を打ち叩く.血だらけになる男もいるという.
カルバラーにおけるフサインの犠牲を,我が身を打ち叩くことによって偲ぶのだ.
アフ【ガ】ーニスタンではシーア派のハザラ人が,臨時にテントを張った集会所に,男と女が,老いも若きも,子供も,立錐の余地もないほど詰めかける.
高い説教台に,白のターバンを巻き,黒や灰色のガウンを纏ったムッラー立ちが次々に登り,悠長な調子で,しかも,いかにも哀調を帯びてカルバラーの物語を語る.
やがて,それを聞いていた老若男女の間に興奮が高まってくる.
誰かが泣き出す.女のほうが先に泣き出す.1人,2人,3人,おい,おいと声を出して泣く.
泣き声はますます高まり,泣き声がいっそう興奮を高める.
ムッラーのほうでも,これでもか,これでもか,というように,いっそう甲高い声で,痛憤限りない口調で叫ぶ.
やがて誰も彼もが泣き出す.カルバラーのフサインの憤死が,とめどもない涙を誘うのだ.
(津田元一郎「アフガニスタンとイラン」,アジア経済研究所,
1977/3/31,p.148-151を参照されたし
マシュハドに滞在中,私はアシュラの儀式,特にフセインに捧げられた礼拝場,ホセイニエ・ジャフィーヤ,それとケルバライで行われた儀式に立ち合う機会があった.
この儀式は,シーア派のイスラーム教徒にとっては,モハラン月の10日目の記念に当たる.
この日は西暦680年,アリとファティマの息子,予言者モハメットの孫に当たる第3代目のイマーム・フセインが,イラクのカルバラの戦いで死んだ日である.
この日に先立つ9日間が,儀式の夜になる.
儀式は,宗教指導者の説教で始まる.
宗教指導者は,この戦いの,神のメッセージとも,騎士道の叙事詩とも考えられる話を語る.
フセインの歴史の主要部分を聞いて私は,カメロネ(メキシコ1863年4月30日)におけるフランス外人部隊の武勇伝の場面を想起した.
フセインは72名の仲間達と共に,3日の間,水も食料もないまま,最初のスンニ派,カリフ・オメイヤッドの何千人もの兵と戦って死んだ.
フセインが,生後数ヵ月にもならない息子と共に殉教する,最も悲痛な個所に差しかかると,絨毯の上に座って聞いている,髭面の逞しい男達は,近親者が死んだと聞かされたかのように涙を流すのだった.
キリスト教会で信者が,イエス・キリストが十字架に架かって死んだことを思い起こして,涙を流す場面を考えていただきたい.
これは信仰心の現れであり,それゆえに,イスラーム教徒の人達は友愛の気持ちから,私にこの儀式に参列してもよいと言ったのだ.
夜も更けて,泣いていた男達は上半身裸になり,同心円状に輪を作るか,あるいはカルバラにあるフセインの墓の実物大の復元に向かって立ち,フセインの名を声を揃えて叫びながら,筋骨逞しい腕で規則正しく早い拍子で,一定の間隔を置いて胸や額を叩く.
それから,マシュハドに住むトルコ系の大グループが,ホセイニエに,何百人か到着する.
皆,喪を表す黒い服を着ている.
彼らは1m強の,これも黒い棒を持っている.これは剣を象徴するものだ.本物の剣は,イラン政府が7,8年前に,儀式での使用を禁止した.
儀式は毎年,自分の頭を割ってしまった流血騒ぎで中断されることがある.
私は彼らを見て呆然としていた.
信者達は見えない敵を打ち倒し,さらにフセインの名を唱えながら,棒を自分の額に次第に早く打ちつけ始めた.
これは,殉教者の受けた痛みを共有し,もしそこにいたのならば,殉教者と共に倒れたであろうという意思を表現するものなのだ.
何人かは儀式の興奮で憑依状態となり,元気な者が6人がかりで静めている.
毎夜,深夜近くにホセイニエの地下で,それを必要とする困窮している人に,無料の食事が出される.
私はこの場に招待された.
参加者は同時にやってきて,部屋いっぱいにクロスが敷かれた床に座る.
大きな鍋から,肉や白インゲン豆や乾しブドウで味付けされた米飯がサービスされる.
一同は喜びや,信じる心や,友愛や食事を分かち合う.
時には,あらゆる年齢の男達が,アマーム・レザの霊廟に向かって,フセインの名前を唱えながら行進する.
ある者は,長い金属の棒のようなものの先に火を燃やし,またある者は,羽やライオンや朱鷺やその他の動物が彫刻された飾りを担いでいる.これは一人で持つには非常に重いものなのだが,群衆の中で予言者の孫の名誉を担うのは特権なのだ.
志願して担いだ者は,精魂尽きるまで運び,よろめきながら次の信者の肩へと,責任を引き継いでゆく.
霊廟に着くや否や,彼らの興奮は殆ど憑依したかのようになり,自分の胸を叩き,ヒステリーと紙一重の状態になってしまう.
(フィリップ・ヴァレリー Philippe Valery
著「シルクロード紀行 いくつもの夜を越えて」,
西東社,2005/7/20,P.165-168)
【質問】
なぜ第4代カリフ,アリーの廟がマザーリシャリフにもあるのか?
【回答】
ムスリム同士の争いの結果,「ここで墓が発見された」ということにされたためだという.
以下引用.
「青のモスク」と呼ばれるマザーリ・シャリフのモスクは,マホメットの従弟で第4代のカリフ・アリーの廟である.
アリーはイラクで葬られたことになっていたが,15世紀,イスラム教内の争いから,ここで墓が発見されたとして,美しい廟が建てられた.
マザーリ・シャリフとは「聖者の墓」という意味である.
こうして,この町は,西隣の古都バルフに代わって新興都市として栄えている.
山と渓谷社編「シルクロード1 中国・ソ連・アフガニスタン」(山と渓谷社,1975/6/1,p.72
【質問】
ザイド派とは?
【回答】
ザイドは第4代カリフ,アリー(ムハンマドの従弟,かつ娘婿.661年暗殺)の曾孫である.
彼は740年,南イラクのクーファでウマイヤ朝への反乱を企て,破れて戦死した.
ザイド派の思想は他のシーア諸派に比べてスンナ派に近く,イマームの幽隠や不可謬を認めない.
またザイドは,他のシーア諸派が預言者ムハンマドによるアリーへの後継者指名伝説に基づき,彼以前の3人のカリフを「簒奪者」と非難したのを退け,「劣ったイマーム」としながらも,彼らの合法性を認めた.
こうした思想と歴史を反映してか,同派のイマーム論では,不正な支配権力に対して武器を取って戦う力が,イマームの必須条件とされている.
(飯塚正人=イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.53を参照されたし
【質問】
カリフ制が崩れたのは?
【回答】
世俗化の果てに,モンゴルによってとどめを刺された.
ウマイヤ朝になって,信仰心・見識共に当代随一の人間を選出するという原理が放棄され,カリフの地位が世襲制になることによって,政体は通常の王権と変わりないものに変化.
権力の世俗化は,社会的に非イスラーム的なものを再び復活させ,それによって共同体内部の統一が直ちに乱されることになる.
そこに「イスラームに帰れ」をスローガンに,アッバース朝がウマイヤ朝を打倒.
しかし,政権奪取後の施政に関しては,アッバース朝もウマイヤ朝と変わるところがなかった.
その結果,政治中枢では権勢を求めて世俗的な実力者達が暗躍,遂には彼らがカリフの地位を形骸化してしまうことになる.
そしてこの王朝の中期以降,教権はカリフに,政権はアミール(政治的実力者,後のスルターン)に委ねられるという,支配の双子時代となる.
そして,周辺地域で分離・独立する地域が増え,アッバース朝の勢力が地に落ちた時期に,東方から襲いかかったのがモンゴル勢だった.
彼らはアッバース朝を倒すと同時にカリフを殺害.
それ以降,イスラーム世界には,正式には教権の長としてのカリフは存在しないことになった.
(黒田壽郎=イスラーム学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.38-39を参照されたし
【質問】
マンツィケルトの戦い(1071年8月26日)で,数が多いビザンツ帝国が負けたのはなぜですか?
そしてもうひとつ,なぜこの戦いを皮切りに,すぐに小アジアが奪われはじめたのですか? それ以前のアッバース朝との戦いでは,敗北はしても,小アジアは奪われなかったのに.
【回答】
マンツィケルト Mantikelt の頃には,ビザンティン軍はかつてのテマ制による強力な騎馬軍団を維持できていなかったのが1つ.
バシレイオス2世頃までのビザンティン軍の主力,カタクラフト(重装騎兵)は,農民に自前で武装させていたもの.
ところが,洋の東西を問わず,農村支配がいきつくところは,富農と貧農の分離.大多数の農民はどんどん貧しくなって,土地を失い,小作人化してしまう.
そうなると,自前で武装するなんて無理な話.
テマ制の軍はこうして事実上崩壊し,その分を傭兵で補わねばならなくなっていた.
トルコ人と戦うのに,そのトルコ人を傭兵の一部に雇っていたぐらいで,数は揃えていても信頼性に欠けていた.
しかも,この国の宿命で,権力者は内紛に明け暮れていて一枚岩ではない.これでは士気も低かったろう.
つまりテマ制の崩壊,そしてトルコ人に民族の勃興期の勢いがあったこともあって,小アジアは失陥してしまうわけ.
マンツィケルトで皇帝自身が捕まったことによる本国の混乱も一因だろうね.
【参照】
http://www31.ocn.ne.jp/~tactic/mantikelt.html
【質問】
今日のバクダードは,千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)時代のそれと同じものか?
【回答】
当時の華麗なバグダードは,モンゴル軍に破壊され,今日では殆ど残っていないという.
以下引用.
1258年2月,フラグ汗に率いられたモンゴル軍が,バグダードの町に押し寄せた.
詩人や学者達の首が,戦利品のように槍の先に掲げられた.
図書館の貴重な書物は積み上げられて,火がかけられた.
その火照りと,殺された何十万もの住民の血で,ティグリス川は赤く染まったという.
盛時の建物で今も残っているのは,アッバース朝王宮の廃墟,世界最古の大学と言われるエル・ムスタンスィーリヤ神学校,それにスーク・ル・ガジルの尖塔(ミナレット)ぐらいのものである.
この他,昔のバグダードの面影を伝える物として,「ハーン」(隊商宿 キャラバンサライ)が一つだけ残っている.
それは,ティグリス川にかかるシュハダー橋を渡った対岸にある.つまり,ハーン・マルジャーンで,観光省によって最近修理され,レストランになった.
「朝日旅の百科 海外編21 イラク・アフガニスタン・パキスタン・湾岸諸国」
(朝日新聞社,1981/6/20),p.1608
【質問】
昔の中東地域の地図を見ると,イスラム帝国時代(ウマイヤ朝・アッバース朝)はアラビア半島の全域を版図にしていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Abbas-will.png
のに,セルジューク朝やオスマン朝はペルシャ湾や紅海の沿岸部しか治めなかった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Seldschuken-Reich-map.png
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6a/Ottoman_1683.png
のはなぜでしょう?
半島中央部が砂漠だからでしょうか?
【回答】
第一に,もともとアラビア半島は馬の生育には適さない土地で,アラビア半島内陸は遠征は出来ても,騎馬軍団を駐留して統治できる程の草原も水場も少なかった.
セルジューク朝やイルハン朝も幾度か,南方から来寇するベドウィンの勢力を討伐したりしているが,統治まではしようとしていない.
マムルーク朝もシリア周辺のベドウィンの首長たちの服属を受けているが,直接統治などはしなかったようだ.
第二には,紅海やペルシア湾沿岸の諸勢力はオアシスや都市が多かったため,他の地域と同様,これらの都市住民がセルジューク朝やイルハン朝,オスマン朝の政権を認証して帰順しその版図に加わった.
半島内陸部に都市が殆どなかったというのもあるだろうが.
初期イスラムが砂漠を版図に治めたのは,単に砂漠のアラブが主体であって,砂漠を特に苦としなかったというだけのこと.
【質問】
オスマン帝国から見てのコッソヴォの戦いの相手,ニコポリスの戦いの相手,モハーチの戦いの相手を,分かり易く教えてください.
【回答】
1389年コソヴォの戦い.対セルビア諸侯の連合軍 ムラート1世戦死するがセルビア軍を撃破.
(これ以後セルビアはコソヴォから北へ移動し,コソヴォにアルバニア人が移住することになる.コソヴォ問題の端緒)
1396年ニコポリスの戦い.対ヨーロッパ諸侯連合軍(ハンガリー王シギスムンド主導の十字軍).
2年前にスルタンを名乗ったバヤジット1世大勝.しかし1402年にアンカラの戦いで敗北し,オスマン朝一時崩壊.
1526年モハーチの戦い.対ハンガリー軍.ハンガリー王ルドヴィク2世敗死.
ハンガリーのルクセンブルク朝断絶,ハプスブルクが王位継承.
余談だが,ムラートが殺された6月15日は,聖ヴィトスの祝日で,セルビアの民族的記念日になった.
その後,ユリウス暦からグレゴリオ暦に移ったときに,聖ヴィトスの日(セルビア語ではヴィドヴダン)は6月28日に移った.
サライェヴォ事件も6月28日で,ヴィドヴダン.
スターリンがユーゴをコミンフォルムから追放したのも6月28日.
ユーゴ最初の憲法の制定も6月28日.
ミロシェヴィッチがハーグに移送されたのも6月28日.
【質問】
オスマン帝国当時のアナトリアの戦略的価値は?
【回答】
さほど重要ではなかったという.
以下引用.
オスマン帝国がバルカン半島の地盤を失うまで,アナトリアは,戦略,経済,政治,財政の各面で帝国の中核ではなかったのである.
15世紀はじめ,オスマンがアナトリアの支配権を殆ど失いかけた際にも,バルカン半島の権力基盤を動員して再び手中に収めたのだった.
<1402年のアンカラの戦いで,オスマン軍はティムール軍に敗北し,スルタンもティムール軍の捕虜となるなど,王朝断絶の危機に瀕した.しかし間もなくバルカンとアナトリアの領土を回復し,53年にはコンスタンチノープルを攻略して,ビザンチン帝国を滅亡させた>
1520年代末の帝国最盛期には,小アジアからの歳入はバルカンからの取り分の僅か4分の3に過ぎず,エジプトからの歳入と同程度だった.
アナトリアは帝国の中で,常に貧しく,発展の後れた地方だったのである.
アナトリアの人口密度は,1800年時点で帝国内部のバルカン地方の2分の1から3分の1だった.
その1世紀後の国民1人当たりの所得でも,オスマンの非ヨーロッパ地方に比べ,(既に独立していた)ブルガリア,セルビア,ギリシャは5倍も多く,ルーマニアは7倍も多かった.
帝国の歴史の殆どの期間,アナトリア在住トルコ人は,ムスリム以外に強制された人頭税の支払いを免除されていた.
しかし,オスマンにとっては常に,民族的基準よりも宗教的基準のほうが大事であったため,ムスリムのアラブ人も税を払わずに済んだ.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.252-253
【質問】
オスマン帝国のデヴシルメ制について教えてください.
【回答】
デヴシルメ devsirme 制は,イスラーム国家体制と共に,オスマン帝国の中央集権体制を支えた柱とされています.
これは,アナトリアとバルカンに住むキリスト教との男子(8〜20歳まで)の内,家系や資質の点で優れた者達を,定期的に強制徴用(デヴシルメ)し,ムスリムに改宗させて教育を施し,将来,常備軍団員(イェニチェリなど)に取り立てる制度です.
この制度は,商人を通じて購入した奴隷(マムルーク)を軍人に採用するという,イスラム諸王朝に伝統的な方法を継承し,発展させたものです.
したがって,デヴシルメ制によって徴用された者は,身分的にはスルタン個人の奴隷と考えられていました.
この制度は14世紀末には既に確立されていましたが,メフメト2世はコンスタンティノープル征服後,オスマン王家に対抗するトルコ系有力家系を駆逐し,また,広大な領土を統治するための新たな人材を育成するために,本来,軍人として徴用したデヴシルメ出身者を宮廷侍従・官僚・地方官としてどしどし登用し,政権中枢部を彼らで固めることにより,比類なき専制支配を築き上げました.15世紀後半以後,オスマン統治機構の中心であるトプカプ宮殿の御前会議(ディヴァーン)の主要構成員である,大宰相(サドラザム),大臣達(ヴェズィール),財務長官(デフテルダル),国璽尚書(ニシャンジ),海軍提督(カプタン=パシャ)などの大部分がデヴシルメ出身者によって占められました.
しかし,彼らはいかに権勢を誇っていても,スルタンから見れば一介の奴隷に過ぎず,大宰相と言えどもスルタンの逆鱗に触れれば,一夜にしてその首が刎ねられました.
バルカン諸民族の側からは,この制度は文字通り「血税」として忌み嫌われました.なぜならデヴシルメとして徴用された人々の大多数は,常備軍団に編入され,妻帯を禁じられて兵営に起居し,極めて厳しい軍紀の下に生涯,戦場から戦場へと駆け巡らなければならなかったからです.
(永田雄三 from 「世界現代史11 中東現代史1」山川出版社,'82,P.41-43を参照されたし
【オスマン朝についてのサイト】
http://www.geocities.jp/ottoman_empire_selim2/index.htm
【質問】
イエニチェリは何の目的があったんでしょう?
親衛隊を作るならトルコ人にした方が改宗する必要も無いし,造反の危険性も低いと思うんですが.
【回答】
奴隷を買ってきて子飼いの軍人や官僚に育てるってのは,アッバース朝の頃から存在するシステムです.
中東は良くも悪くも(そして現在も)極端な部族社会ですから,
王様が自前の武力なり部下なりを揃える為には,よそから色の付いてない若者を引っ張ってきて,いいように教育するのがベストだったわけで.
デウシルメ制の特徴としては,今まで奴隷商人から高い金を出して買い上げていたのを,強制徴用(=タダ)に切り替えた点にあります.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
デウシルメってイエニチェリ選ぶものですよね?
後にイエニチェリが改革を阻んだみたいなことがありましたけど,イエニチェリって政治もするんですか?
なんか,ただの軍隊ってイメージがあるんですけど.
【回答】
オスマン朝は17世紀頃には軍人と政治家の区別が曖昧になってきていたらしい.
そして官僚トップの大宰相は軍人から出るから,イェニチェリ上がり.
それで「代々宰相を出す家柄」なんて出てくるのは……イェニチェリ制度の腐敗以外の何者でもないけど.
地方のトップなんかもイェニチェリに任されることが多くて,実は19世紀初めのギリシアやセルビアの独立運動は,腐敗したイェニチェリへの反乱が起こりだったりもする.
あと,イスラム神学校(マドラサ)から推薦で官僚になるという道もあったみたい.
まあどっちにしても科挙のようなことはやってないはず.
【質問】
オスマン帝国の地方軍団の供給源,ティマール制について教えてください.
【回答】
「御恩と奉公」
ティマール制 timar は,大きさの順にハス,ゼアメト,ティマールと呼ばれる軍事封土(デイルリク)の保有者(その大部分は最小封土《ティマール》の保有者――スィパーヒー Sipâhî)が,戦時に自ら騎士として武装し,その保有高に応じた数の,武装従卒を引率して出征する軍事封土制です.
その軍団は,下から順に
スィパーヒー
アライ=ベイ(もしくはチェリバシ――ゼアメト保有者)
サンジャク=ベイ(ハス保有者)
ベイレル=ベイ(同)
に至るヒエラルキーを構成しました.
こうした軍事組織のみならず,ティマール制はデヴシルメ制やイスラム諸制度と並び,オスマン帝国の,主としてアナトリアとバルカンとに対する地方行政にも深く関わりました.
ただし,中央集権支配の実を上げる事を重要視したスルタンは,ベイレル=ベイやサンジャク=ベイ,あるいはスィパーヒー達による,各自の封土に対する一円的領土支配を許さず,彼らの「封建領主」化による自立を妨げるための様々な措置を講じていました.
したがって,封土の大小に応じた軍事的ヒエラルキーは存在しましたが,封土保有者相互の間の封建関係は少なく,原則としては一介のスィパーヒーからベイレル=ベイに至るまで,皆それぞれ歴代のスルタン個人との間に直接,主従関係を結びました.
スィパーヒーの場合,封土世襲は現実には頻繁に見られましたが,その場合でも,親が戦功によって得た「加増分」までも子が相続する事は許されませんでした.
また,ティマール制は統治機構であると同時に,農業生産を維持し,管理するための経済・社会制度でもあり,スィパーヒー達に,農民層に対する一定の量主権を認めていました.
例えば,スィパーヒーには原則的には封土から得られる租税の徴収権の一部が与えられたに過ぎませんが,農民の土地用益権(土地所有権は国家に属する)を保証する土地証文の分配・管理権,耕作地を放棄した農民を10年以内ならば連れ戻す権利,逆に農耕を怠る農民を追放して農事に熱心な農民と入れ替える権利などがスィパーヒー層に認められていました.
また,初期の時代には,封土内に小農経営規模程度のスィパーヒー直営地を認め,そこで農民を使役させ,あるいは軍馬用の牧草地での草刈りをさせる事を許しましたが,15世紀以降,それらは廃止もしくは金納化への方向を辿りました.
1560年代以降,間断なく行われた,オーストリアやイランとの戦争により,スィパーヒーは「封土」から遠く離れた前線に毎年のように出征する負担に耐えられなくなり,次第に「封土」を手放す者が増加します.
これに対し,政府はこれらの「封土」を,軍隊とは縁もゆかりもない侍従や官僚・オスマン王家一族に与えたため,ティマール制は制度としては存在していても,軍事機能としては機能しなくなっていきました.
そして,1831年には,マフムト2世 Mahmut IIの行政改革の一環として,この頃完全に形骸化していたこのティマール制は廃止されてしまうのでしたとさ.
(永田雄三 from 「世界現代史11 中東現代史1」山川出版社,'82,P.46-48 & 61-62を参照されたし
Ottoman Sipahis

【質問】
銃を初めて騎兵に対して効果的に使ったのは,オスマン帝国ととサファヴィー朝ペルシアの間で戦われた,チャルディラーンの戦いというのは本当ですか
【回答】
1449年8月の明vsオイラート間で為された土木の変の2ヶ月後の北京攻防戦で,明軍が銃の類を含む火器を大量に運用してオイラート軍を撃退したのが最初.
チャルディラーンの戦いは,銃砲装備の歩兵部隊の,騎兵に対する優越性を示した点が,世界最初.
長篠の戦ともよく比較される.
この戦いは,当時アナトリアや東欧に根を張っていたオスマン・トルコ帝国(スンナ派)と,イランで勃興しつつあったサファヴィー朝(シーア派)とが,中東の覇権を巡ってイラン高原で激突したもの.
イランに根拠地を置く,シーア派サファヴィー朝が次第に勢力を拡大しはじめたことに危機感を抱いたオスマン帝国のセリム
Selim 1世は,,まず,国内の親シーア派を粛清する.1513年までに4万人を処罰・処刑.次いでペルシア,サファヴィー朝に対する戦いを決め,1514年8月13日,ウルミア湖東方のチャルディラーンで,両軍はぶつかった.
サファヴィー側は騎兵隊が主力だが,12万にのぼるオスマン側は騎兵隊小銃隊の他に砲兵隊まで持っていた.
配下にトゥルクメン系の遊牧民(=騎兵を多く抱えているサファヴィー軍に対抗する為,トルコ軍のセリム1世は一計を案じる.
セリム1世は中央に自らとイエニチェリ,左右にアナトリア,バルカンの騎兵を配置,それぞれの隊列の前に銃砲兵を展開させる.
さらに敵騎兵の突進を食い止める為,障害物として車やラクダが並べられ,大砲自体もお互いが鎖で繋がれた.
最終的なカモフラージュとして,囮の騎兵が最前列に陣取った.
戦いが始まると,敵軍の突撃に合わせて囮の騎兵は左右に逃げ散り,その後ろから現れた砲列が,圧倒的な火力を浴びせかけ,即座にサファヴィー軍は壊乱.
左翼のみサファヴィー軍の長,シャー・イスマーイルの奮戦によって苦戦するが,それも中央からイエニチェリが救援に駆けつけるまでのこと.
イスマーイルの負傷によってサファヴィー軍は総崩れとなり,戦いの趨勢は決した.
オスマン側は後を追って,タブリーズをも占領する.
だが戦いに勝ったセリム1世にも悩みがあった.
ペルシアの気候が涼し過ぎ,こんなところで越冬できないと,軍隊の不満が起こったのだ.
仕方なくオスマン軍団は9月13日に撤退してしまう.
だからイスマーイールもオスマン側の撤退に従って易々とタブリーズに再入城する.
ただし,サファヴィー朝はアルジンジャン,クルディスターン,ディヤルバキル地方をオスマン帝国に譲らねばならなかった.
チャルディラーンの戦いは,イスマーイールにとって大ショックだった.
今まで保持してきた“不敗の聖者”たるイメージが一朝にして崩れ去ったからである.
以後イスマーイールは退嬰的になり,ウズベク族の新しい侵入や地方反乱などに対しても,すべては部下の将軍たちにまかせてしまい,自らは狩りや飲酒に耽るようになる.
そして,1524年の春,グルジアで病気にかかり,帰途アルダビールで1度持直したが,5月タブリーズに帰って死んでしまう.
なお,イランの名誉のために言えば,サファヴィー朝では,その後アッバース1世(位1587〜1629)が軍制改革を行って軍に銃火器を取り入れ,他の諸々の改革の成果もあって,同王朝の最盛期を現出せしめている.
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/akira16/index11-7-1.html,
イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw in 軍事板,
例の170 ◆vBOFA0jTOg in 世界史板,
&イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板
【質問】
メフメット2世はコンスタンチノープルをどうやって陥落(1453/5/29)させたのか?
【回答】
巨砲と艦隊による挟撃.
そのためにメフメット2世はウルバン砲を作らせ,また,艦隊を陸送(!)して金角湾に侵入させたという.
以下引用.
二重三重に城壁を築いて不落,不滅を誇ったコンスタンチノープル城は,なぜ落城したか.
彼〔メフメット2世〕の作戦は正面である城壁側(西側)からと海側(東側)の両面作戦であった.
城壁を攻撃するために大砲を使うことを考えた.
メフメットII世は巨大な大砲作りの技術を持っているというハンガリー人のウルバンに巨砲の製作を依頼した.
エディルネでウルバンの大砲を鋳造したという.
その大きさは,何と砲身の長さ約8.2m,厚さ25cm余,砲口の口径は75cmを超えていたという.
驚くべき大きさである.そして驚くべき鋳造技術である.
15世紀半ばの出来事である.
なお,砲弾としては丸く削った岩石を使ったという.その重さは550kgを超えていたという.
メフメットII世は金角湾からの攻撃も考えた.両方から挟み撃ちすることを考えていた.
そのためには金角湾に船を入れなければならない.
湾の入り口は太い鉄の鎖で封鎖されていた.
そこでとられたのが艦隊山越え≠ニいう奇策であった.
急流下りの船を陸路台車に乗せて出発地点に戻すということはある.その程度の事は理解できる.
しかし,メフメットII世の場合は木造船とはいえ,とにかく軍艦である.まさに奇想天外である.
地面に丸太を敷いて油脂を置きコロのようにして,その上に艦を引き摺り上げたという.
コロでなく板を張ってその上に台車を使って引き上げたという説もある.
いずれにしろ,一夜あけたら金角湾内にトルコ軍艦が浮かんでいたという状況にビザンチン側のショックは大きかった.
皇帝は眼前の光景を見て,絶望に打ちのめされた≠ニなるのである.
1453年5月29日,メフメットII世の軍が城内に入り落城した.
大野正雄著「アジア・ハイウエー見聞録」(さきたま出版会,2006.9.15),p.211-212
要は
・新兵器
・新戦術
というところに帰結されるのではないかと.
ちと逸話臭を感じさせなくもないエピソードでもあるが.
【質問】
アルメイダはなぜ,エジプト=グジャラート艦隊を追ったのか?
【回答】
復讐のため.
初代のインド副王に任命せられ,1505-10年,ヴァスコ=ダ=ガマに続いてインド洋を航したアルメイダ
D. Francisco de Almeida(1450?-1510)は,アフリカ東海岸のキーロア
Quíloa,モムバサ mombaça,アンゲディヴァ島
Angediva,その近くのオノル Onor,インドのマラバール海岸のカナノール
Cananor,コチン Cochinに,ポルトガル人の拠点としての要塞を築き,一方,その子ロレンソ
D. Lourenço de Almeida (1480?-1508)をして艦隊を率いてマラバール海岸に沿って航海させ,さらにモルディヴ諸島とセイロン島とに行かせた.ポルトガル人のインド洋支配は,まずこれらの地点の占拠から始められたのである.
だがしかし,ロレンソは,コチンとカナノールの船を護衛してチャウル
Chaulに向かう途中,エジプトとグジャラート
Gujarat との連合艦隊に襲撃せられ,チャウル近海で戦死する.その有線の有り様は,長く後世に語り継がれた.
アルメイダは息子の復讐を誓い,エジプト=グジャラート艦隊を捜し求め,1509年2月2日,ディユ Diuの沖でこれを捕捉,殲滅した.
エジプト艦隊司令官ミール・オセム Mirocem=Emir Hussein=Amir
Husaynは船から下りて陸伝いに逃れ,その指揮下の艦船は悉く沈められた.
これはポルトガルの武器と海軍の優秀性を証明し,インド洋におけるポルトガルの制海権を確立したものである,とポルトガルの史家は記している.
このエジプト艦隊は,紅海からインド洋に出ていたマムルーク朝のもので,インド洋に出現したポルトガル勢力を排除しようとして,却って破られたのであるが,この後マムルーク朝の艦隊の活動は記録されず,マムルーク朝そのものも,この後数年にしてオスマン帝国に滅ぼされるから,この海戦での敗北は,インド洋におけるマムルーク朝の勢力の消失を示すものであった.
(榎一雄「ヨーロッパとアジア」大東出版社,P.32-33を参照されたし
【質問】
他の中東諸国に比較し,サウディアラビアはなぜ宗教保守的傾向が強いのか?
【回答】
サウジアラビアはムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの哲学を建国・統治理念としているから.
サウジアラビア創建は18世紀中期にまで遡る.
関わった人物は2人.
1人は,ムハンマド・ビン・スウードで,現在サウジアラビアを統治するサウード家の直接の先祖である.
もう1人は,ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブ.この国の宗教を特徴づけるワッハーブ派という言葉は,彼の名前に由来する.
1744年,2人のムハンマドはアラビア半島中部,ナジュド地方にあるムハンマド・ビン・スウードの拠点,ディルイーヤで盟約を結ぶ.この2人の出会いは,信仰と政治の邂逅でもあった.ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブが前者を,ムハンマド・ビン・スウードが後者を担う.
ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブはナジュドの宗教者の家系に生まれ,若いときから叡智を求め,諸国を遍歴した.地元に戻ってからはきわめて厳格なピューリタン的宗教改革を創始する.これがのちにワッハーブ派あるいはワッハーブ運動と呼ばれるようになる.この運動に感銘を受け,それを政治的・軍事的に支援し,運動の主体となっていったのがムハンマド・ビン・スウードとその子孫達,すなわちサウード家なのである.
その意味ではサウード家の王朝は建国当初よりきわめて宗教的な国家であった.現代のサウジアラビア王国を含むサウード朝はムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの哲学を建国・統治理念としているからである.
詳しくは,
保阪修司 「オサーマ・ビン・ラーディン主義は存在するか?」
を参照されたし.
【質問】
オスマン帝国はなぜウィーンを攻略できなかったのか?
【回答】
簡単に言えば,兵站の限界だという.
以下引用.
17世紀にはオスマンは既に膨張の限界に達していた.
たとえ軍事的要因からさらに征服が可能だったとしても,人口学的な弱さから新たな領土に入植させられなかったか,あるいはオスマンの支配を強化できなかったのである.
軍の補給の面からも,ハンガリー北方の原野やイラン平原に軍を駐留させておくことは不可能だった.
オスマンは1520年代と1680年代に,もう一歩でウィーンを制圧できたが,ハプスブルクの権力の中心地は遠すぎて征服できないことを最後には理解した.
南方からの火砲や補給物資がようやくウィーンに到着した時,ウィーン攻略の時間は殆ど残っておらず,オスマンの根拠地からあまりに遠く離れたウィーンを冬季に攻略することは,補給の点でも政治的にも危険で,軍を壊滅させかねなかった.
そうこうする間に,ハプスブルク側は北方で戦力を立て直し,オスマンにとってかなりの脅威となっていった.
とりわけ,17世紀末にコンスタンチノープルはキリスト教勢力の包囲網に直面し,1710年代になると,才気煥発なサボイ家のオイゲン<1663〜1736.オーストリアの名将>がオスマン君主の軍隊に壊滅的打撃を与えた.
一方,17〜18世紀に,スペインに対する旧西部戦線が片付いたが,これも皮肉なことに,オスマンにとって幾分不利に働いた.
16世紀に来たアフリカのムスリムは,ハプスブルク家のスペインが地中海を渡って進撃してくるのを食い止めるよう,オスマンに要請した.
しかし,この脅威が後退してしまうと,北アフリカの住民にとって,オスマンが支配を及ぼす理由など殆どなくなってしまった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.267-268
【質問】
衰退してきたとされる18世紀のオスマン帝国の財政状況は?
【回答】
徴税は非効率であり,財政システムは崩壊していたという.
以下引用.
〔18世紀末には,〕かつて効果的だった財政・行政の両システムも崩壊していた.
〔略〕
国力というものはある程度,歳入の大きさとそれを調達する際の効率性によって測ることができる.
1789年当時,オスマンの歳入は375万ポンド,イギリスは1680万ポンド,フランスは2400万ポンドと見積もられている.10
効率性を歳入に占める徴税コストの割合で測ることができるとすれば,ロシアはヨーロッパ列強強国の内,財政上,最も効率の悪い国家だった.ロシアは歳入の内の75%を国庫に納めるに過ぎなかった.11
オスマンの場合,この数字は18.75%となり,実に国家歳入の5分の4以上が,何らかの形で徴税者の手元に残されていたのである.12
(原注)
10 Inalcik and Quataert, Economic, p.714
11 Bonney ( ed. ), Economic Systems, p.368
12 R.Owen, The Middle East in the World Economy 1800-1914, Routledge, London, 1987, pp.59-60
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.266
成立当初のオスマン帝国帝国は概ね,戦争を遂行したり,戦利品や土地,歳入を獲得したりするための機構だった.
戦争での勝利は帝国の存在を正統化し,支配者と地方エリートを結び付け,どちらも豊かにしたのである.
しかし,1600年には戦利品や領土拡張の時代は殆ど終わりを告げた.
今や帝国は戦争機構を国内の資源で賄わなければならず,地方エリートの忠誠心を確保するための新たな手段も見つける必要があった.
同,275-276
【質問】
19世紀はじめから19世紀半ばまでのオスマン帝国における,中央政府と地方守備隊との関係は?
【回答】
半ば独立し,自らで経営する手段を身につけていたという.
また,一部地方では地方権力の崩壊によって,騒乱状態が出現したという.
以下引用.
オスマン帝国の地方に駐屯した守備隊は長い間,自治権を主張し,君主から手当てを与えられなかったとしても,自分達で稼ぎ出す手段もしっかり身につけていた.
知事の在任期間は非常に短く,任命を揺るぎ無いものにするために賄賂はますます法外な額に上ったため,官吏達の最大の関心事は,投資に見合うだけの良い報酬を確保することだった.
地方の住民も,土地の有力者の支配下で十分な生活を送れたので,例えば,ベネチアあるいは19世紀のエジプトの効率的な徴税人の下で暮らすよりは,例え君主が気まぐれであっても,オスマン支配下の楽な生活のほうを好んだのだった.
地方の有力者の支配は,中央にも利益をもたらした.
例えば,オスマン支配下のイラクでは,地方政権が租税を殆どコンスタンチノープルに送らなかったが,少なくともイランとの脆弱な国境線は自分達で守っていた.
イラクでは長期に渡って一族が軍事的支配を及ぼしていた<18世紀初頭から19世紀前半まで,中央政府から自立したマムルークの支配が続いた>ので,ある程度の安定と秩序が保たれた.
しかし,一部の地方では中央の権力が崩壊したため,地元有力者達が農村を無制限に搾取し,地方閥や武装集団による無秩序的な戦いが繰り広げられ,荒廃した.
1804年のセルビアでの蜂起も,オスマンの地方エリート同士の争いによって引き起こされた争乱状態を阻止するためだった〈これは19世紀にバルカン半島で発生した多くの蜂起のさきがけとなった).
ようやく19世紀半ばにかけて,オスマン帝国は軍と行政機構の効率化と集権化に再び着手した.
この時点で,中央は多くの地方での権威を改めて主張できたが,その当時には,帝国内部の主要地域――例えばギリシャ,セルビア,ハンガリー,エジプト,北アフリカの殆ど――は永遠に帝国の版図から抜け落ちていたのだった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.274-275
【質問】
エジプトの新,ワフド党(英統治下からある保守政党)は
「スーダンは昔エジプト領だったのだから,政権を取ったらスーダンを実力で併合する」
って主張してるんだけど,根拠あるの?
【回答】
ムハンマド・アリーの頃に,スーダンを征服してます…
が,当時のエジプトはオスマン・トルコの領地でした(つまり王様じゃなくて太守
その後,トルコと袂を分かったエジプトは,マフディーの乱でスーダンから叩き出されますが,英軍の支援を受けて同地を再征服しました.
とはいっても,この時点のエジプトは実質的に英国の支配下に置かれてたわけで,スーダンはエジプト領だったという主張は…まあ言うだけならタダだわな,と.
【質問】
オスマン帝国で西洋型軍隊導入が困難だったのは何故か?
【回答】
・西洋型軍隊の忠誠心に疑念があった
・イエニチェリ軍団や文民官僚と渡り合わねばならなかった
ためだという.
以下引用.
19世紀後半までに,オスマン帝国の支配者は誰であれ,ヨーロッパの軍事的,経済的パワーの挑戦に対抗し,帝国と王朝が存続していくためには,近代化が不可欠であると考えていた.
しかし西洋の科学技術や専門能力を導入すれば,必然的に西洋の価値観ももたらされるため,オスマンの君主が,新たな軍幹部の忠誠心を恐れる十分な根拠があった.
しかも,1622年のオスマン2世の廃位から2世紀に渡り,多くの君主はイエニチェリ軍団に退位,殺害されてきたという歴史もあった.
王朝は神聖なままだったとしても,君主個人の生命はそうはいかなかったのだ.
昔から続いてきたイエニチェリの軍は,王宮の派閥政治における手強い分子であり,通常,改革や西洋化の反対者を支持してきた.
新たに創設された,職業軍人で構成されるプロの軍隊も手ごわいことが明らかになるが,今回〔アブデュルハミト2世の改革〕は急進改革やトルコ人ナショナリズムを支持してきた.
少なくとも文民官僚は,君主にとって深刻な脅威であった.
伝統的に,高級官僚は君主の奴隷であり,官僚の出世ばかりか生命や財産までも君主の気分次第だった.
しかし,19世紀半ばに行われた,いわゆるタンジマートの改革の時代に,事態は一変した.
今や,生命と財産を保障された高級官僚は,政府を支配し,改革のプログラムを監督し,君主を政治の片隅へと追いやったのである.
アブデュルハミトが目指したのは,規模も自信も専門的技能も深めつつあった官僚に対し,君主の中心的役割を再び主張することであった.
アブデュルハミトの野望と,それがもたらした闘争には,当時あるいはそれに先立つ時代の専制君主国とたくさんの類似点がある.
君主は,自ら任命する宰相に権限を集中させ,官僚機構に配下の者や情報提供者のネットワークを張り巡らせ,大規模な秘密警察網を展開したため,政界では恐怖と不信が蔓延った.
オスマンの1908年版の公式年鑑は,君主個人と宮廷について40ページを割いているが,君主の補佐官には,それより16ページも多く費やされている.
オスマン軍の高名なプロイセン人顧問だったコルマー・フォン・デア・ゴルツは,アブデュルハミト個人による支配体制は18世紀プロイセンの絶対王制と似通っていると指摘した.
その一方で,君主の極端に疑り深い性格のため,君主個人の秘書官の間でも分裂と不信を招いているとし,また,政府があまりに肥大化し複雑になっているため,君主の時代遅れの恣意的支配は結局,非効率と挫折に終わるだろうと論じている.
アブデュルハミト自らの支配が,オスマンのエリートから,さらにヨーロッパからも非難されたのは当然だった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.260-262
16世紀初頭にメッカとメディナがオスマンの支配下に入るまでに,イスラムは既にほぼ1000年も続いていたため,深く根をおろし,ムスリム以前の高度な文化の殆ども吸収していた.
こうして,イスラムの世界観や価値観は,地域の生活やその豊かな文化のあらゆる側面へと浸透していった.
イスラムを信奉し,その生活様式を維持することは,支配者にとっても臣民にとっても同様に最も高い理想であった.
オスマン帝国がこのように,イスラムの高度な文化を吸収し,世界の指導的なイスラムの帝国,庇護者となった以上,ヨーロッパの刷新を受け入れ,それを国内に強いるのは難しくなってしまった.ヨーロッパの刷新の多くが,究極的にはイスラムの核心的な信条や価値観に挑戦するものだったから,なおさらだ.
イスラムそれ自体も,ある程度まで,キリスト教の西洋とは異なる者として定義づけられたため,公然とヨーロッパの事物を借り入れることは,いっそう困難だった.
サファビー朝イランとの対立が16世紀に始まったことや,さらに悪いことに,オスマン帝国内部で広範囲に渡りシーア派の異端者から挑戦を受けるようになったことも,オスマン帝国が伝統的なスンニー派イスラムと強く結びつき,その規範から少しでも逸脱することに疑念を呈するようになった理由である.
「サファビー朝をイデオロギー的に『異端者』であると描く必要性から,それに付随して,オスマンの君主を敬虔な正統派ムスリムで,そうした異端から真の正統派を守る唯一の庇護者である,と描かなければならない必要性が生まれた.
ウラマーが帝国の知的生活を支配するようになると,この必要性はさらに高まり,その結果,オスマンは正統派の規範的なイスラムという観点から,自国の正統性を主張するように変わっていったのである」13
(原注)
13 M.Kunt and C.Woodhead (eds), Suleyman the Magnificent and His Age Longman, London, 1995所収のC.Imber, 'Ideals and Legitimation in early Ottoman Empire', p.148.
同,p.272-273
【質問】
近代軍隊を導入する際,オスマン帝国は,それまでのスィパーフ(近衛騎兵)を活用することはできなかったのか?
【回答】
できなかったようだ.
オスマンの地方エリートは,土着した世襲の地主貴族ではなく,財産の所有権も不安定であり,また,地方の権力闘争を勝ち抜いた後は,自分から進んで軍閥となり,君主の正統性は認めるものの,殆ど何も貢献しようとはしなかったという.
以下引用.
戦争の本質も,オスマン帝国にとって不利に変っていった.
規律は高いが費用もかかるプロの歩兵が,近代軍隊の中核を占めるようになり,シパーフの近衛騎兵は最早用済みになりつつあったからだ.
しかし,シパーフは単なる兵士では泣く,地方の治安,秩序を守る上でも重要だったから,これは深刻な問題だった.
ヨーロッパでも貴族の騎兵は過剰気味だったが,騎兵達は君主の軍隊の将校へと転身したので,これが支配者と地方の貴族――18世紀のロシアをはじめ,ヨーロッパ各国の基盤となっていた――の同盟関係を,物質的にも,感情的にも強化した.
だがオスマン帝国は,中央と地方エリートの間に,ヨーロッパほど安定し,実りのある同盟を築けなかった.
オスマンの地方エリートは,その地に十分定着した世襲の地主貴族ではなく,財産の所有権も不安定だった.
また,オスマンの地方に住む有力者の子息達は,帝国軍の忠実で有能な軍人にはならず,地方の権力闘争を勝ち抜いた後は,自分から進んで軍閥となり,君主の正統性は認めるものの,殆ど何も貢献しようとはしなかった.
そうした中で,近代戦争を遂行するために,それまでにない規模で歩兵部隊が集められたため,国家の財政は最早限界に来ていた.
給与を受け取れなかった守備隊は,やむなく民間に職を求めたり,あるいは生き抜くために山賊行為に走ったりし,公共の秩序や帝国の権威は脅かされた.
地方の政治が,略奪品を巡る戦闘へと発展することもしばしばだった.
その戦闘は,独立した守備隊同士やその内部で,さらにある種の地方有力者達を巻き込んだりする場合もあった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.275-276
【質問】
オスマン帝国海軍の近代化の過程について教えてください.
【回答】
オスマン海軍は,レパント海戦以降は技術的に立ち遅れて衰退したと考えられていますが,実際17世紀末まで旧態依然としたガレー船隊ばかりで,ダーダネルス海峡をベネチアに封鎖されて敗北したりしています.
カルロビッツ条約でモレア半島(ギリシャ)やイオニア諸島を一時喪失した後に海軍力再建に本腰を入れ,主に北方戦争で緊密な関係となったスウェーデンから造船技術者を招いて,西洋式帆船の建造を開始します.
後にはフランスなどから艦船を購入し,1768年露土戦争前には80門艦など戦列艦15隻とフリゲート20隻を保有するまでになりましたが,1770年チェシメ海戦でロシア地中海戦隊に全滅させられます.
その後はナバリノ海戦(1827)まで壊滅と再建を繰り返しますが,常時十数隻の戦列艦とフリゲート艦を保持します.
1830年代になると,国家近代化を進めるマフムト2世は,蒸気船にも興味を示し,小型蒸気砲艦を購入しますが,まだ主力は木造戦列艦でした.
クリミア戦争シノープ海戦で木造フリゲート艦は殆ど沈没しましたが,主力の戦列艦はコンスタンチノープル在泊で無事だったので,後にスクリュー推進に改造されたものもあります.
メフメト2世の後継スルタンであるアブデュルメシドとアジズは英仏伊訪問を行い,開発されたばかりの装甲艦に強い感銘を受けて,自国艦隊への採用を決めたようです.
1865年から70年にかけて英仏から集中的に購入しています.
また,エジムト藩王国向けにフランスが建造していた艦も,モハメドアリー家の世襲支配を認める代償に召し上げています.
しかし,露土戦争前夜のスルタン廃位事件に海軍将校が加わっていた為,後継のアブデュルハミト2世が海軍を信用せず,以後は増強更新が全く行なわれず不振に陥ります.
1897年ギリシャとの戦争では,艦隊は出撃しましたが,整備不良による機関故障と備砲暴発に悩まされています.
幸いギリシャもたいした艦船を持っていなかったので大事には至らなかったようです.
9000トンクラスの大型艦もいよいよ老朽化が進み,新規建造より安いと騙されてイタリア・アンサルド社やドイツ・フルカン社で改装されますが,結局1914年までに廃棄されるか宿泊船として使われるだけの惨状に落ち込みました.
1885年以降ゲーベン遁入まで,新規建造された大型艦は防護巡洋艦2隻だけでした.
【質問】
オスマン帝国のマフムト2世が創設した「ムスリム常勝軍」について教えてください.
【回答】
ムスリム常勝軍は,腐敗したイェニチェリ Yeni Çeri 軍団に代わる,西欧化された常備軍団です.
イェニチェリは17世紀以後,あらゆる改革に反対する無頼集団と化し,帝国各地におけるその傍若無人な振る舞いは,人々の怨嗟の的となっていました.
これは,帝室財政窮乏により,イェニチェリやスィパーフ(近衛騎兵)への給料遅配や,インフレによる実質賃金目減りから,彼らが暴動を絶えず起こすようになり,それとともに軍紀が弛緩して無頼集団化したのが原因です.
彼らはまた,軍人としての特権をかさに着て,商工業に干渉したり,不正な徴税を行いました.
治安維持や国境警備に派遣された地方都市においても,彼らは同様に振舞いました.
マフムト2世は,首都においてエシュキンジと呼ばれる新軍団を創設すると,1826年にイスタンブール市民の力をも借りてイェニチェリ軍団本営を襲わせ,激しい市街戦の末に首都の軍団本部を壊滅させて,この制度がオスマン帝国において消滅した事を全土に布告し,同時に,同軍団と深い関係にあった神秘主義教団ベクタシュをも閉鎖させました.
イェニチェリ廃止後,直ちに新編成されたヨーロッパ式の常備軍団が,この「ムスリム常勝軍
asâkir-i Mansûre-i Muhammediye」で,ここにオスマン朝の軍隊はほぼ完全に西欧化されたのでした.
(永田雄三 from 「世界現代史11 中東現代史1」山川出版社,'82,P.62 & 74を参照されたし
【質問】
なぜ1860年にフランス軍がレバノンに介入したのか?
【回答】
キリスト教徒に対する大規模な虐殺が発生していたため.
以下引用.
単一の平等なオスマン市民を作り上げようとした1856年の〔オスマン帝国の〕改革は,自治を続けようと心に決めていたキリスト教徒からも,さらには,異教徒達と同じ水準に落とされるのを侮辱と感じたムスリムからも受け入れられなかった.
外国人やキリスト教徒との競争で,一部地方の手工業や産業が打撃を受けたため,ムスリムの怒りはますます高まり,その結果,キリスト教徒に対する大虐殺が発生した.
オスマン帝国の中央政府は,こうした虐殺を一般には歓迎せず,もちろん煽動もしなかったが,とりわけ地方で大衆の怒りを抑えるには限界があった.
最初の大虐殺は,1856年から60年にレバノンとシリアで発生し,近年富と自信を増していたマロン派<東方キリスト教の一宗派で,レバノンを中心とする東方典礼カトリック教会>のキリスト教徒が犠牲になった.
約4万人の命が失われた後,フランス軍部隊が介入し,その地方での新政府樹立を助けた.
1861年,レバノンは自治地域になり,キリスト教徒の首長を持ち,あらゆる共同体の代表が参加する会議も作られたが,こうした解決策を保証したのは列強諸国であり,オスマン政府は関与さえできなかった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.287-288
【質問】
エルトゥール号遭難事件について教えられたし.
【回答】
今,エルトゥール号の遭難に関する本を読んでいます.
1890年に起きたオスマン帝国海軍のFrigateが串本沖で難破沈没した事件の周辺を書いた本です.
遭難してから最初の水兵が,樫野崎の灯台に助けを求めたのが,1890年9月16日午後10時15分.
多数の遭難者が灯台に押し寄せ,灯台は小使を樫野集落に送ったのが17日深夜,
同時期に樫野集落の住民も,遭難者を発見し,救出活動を開始.
17日10時30分,8km離れた東牟婁郡大島村役場に遭難の知らせが齎され,村を挙げて救出活動を開始.
村長は直ぐに,新宮町にある東牟婁郡役所に知らせを出し,和歌山県には70km離れた西牟婁郡の田辺電信局から知らせて貰う手配をします.
村長始め,村の有力者に率いられた人々が恐らく海路で樫野地区に到着したのが11時30分.
午後1時に灯台に到着し,医師4名による応急手当と,生存者と軽傷者の移送,遭難現場での漂着遺体捜索と,物品保安の為に書記や巡査を送り込み,重傷者の手当手配,事情聴取をして,終わったのが午後4時.
この頃,警察分署の分署長が現場に到着.
和歌山県が事件を知るのが18日深夜.
偶々,大島の港内に低気圧を避けていた汽船が停泊しており,この船の船長や乗組員が,遭難者に事情聴取をしてやっとあらましが判ってきました.
時は明治時代です.
人々は海外事情に疎く,事情聴取の遭難時刻が推定と随分違っているのを不思議がっていましたが,色々問いただして,やっと日本とトルコの間に時差があることを理解したそうな.
午後5時,再び田辺から県に電報を送信して詳報を伝え,沈没艦が軍艦であることが判った為,海軍と呉鎮守府に電報を打ちます.
その間,村長は現場を視察しますが,波が高くて現場近くには近づけませんでした.
丁度その頃,遭難者の遺体が徐々に浜辺に打ち上げられ始め,4名の遺体が検死を経て埋葬されました.
17日の夜から18日の朝に掛けて,村長は,郡役所と県庁に宛てて報告書を認め,串本郵便局から10時に仕立てられる郵便に間に合う様に送り出しました.
東京にこの報が伝わり,市民達が第一報を知るのが,19日の事で,遭難から実に3日経過しています.
正に日本は広かったのですね.
「エルトゥール」

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年09月15日22:11
【質問】
「エルトゥールル」遭難事件はトルコの教科書にも載っていてトルコ人なら誰でも知っている,だからトルコは親日なのだ,という話はどこまで本当なのでしょうか?
【回答】
「愛・蔵太のすこししらべて書く日記」,2008/1/14付によれば,トルコ近代史ではけっこう重要な出来事だが,しかしそれは美談としてではなく,オスマン皇帝の権威失墜を象徴するような出来事としてとらえられている模様.
少なくとも,「トルコの教科書にも載っていてトルコ人なら誰でも知っている」かという点については,疑問符がつく.
詳しくは同ブログを参照されたし.
消印所沢
ワールドカップの時にトルコ代表の選手が串本町にお礼に行ってますが,そっちから日本への表敬用のネタがそれ(と地震がらみ)くらいしかない,からだと思います.
それとエルトゥールル号の話が載ってるのは,確か歴史の教科書というよりすんげー昔のカリキュラムで使ってた道徳的な副読本でなかったかなー?
うろ覚えでごめんなさい.
向こうの歴史の教科書って小学校でも,国の歴史としてヒッタイトの次に古代ギリシアのことをやらせるのですよ.(カリキュラム変わってなきゃ,ですが)トロイの遺跡があるから,なんですが.
馬鹿でも徳川家康が判る,みたいなノリで覚え込まされるのはどっちかっていうと,オスマン帝国時代の栄光とアタテュルク萌え〜なので,「ワシントンの桜の木」ばりに膾炙してるかどうかは謎です.
私の〔トルコ人の〕友達は日本マニアだから,一般的とはちょっと言い難く,サンプルにしづらいなあ….
ただまあ,こんな事は判った上でワルツを踊るのが大人ではないのかね,と思ったのは確か.
追加.
お隣の国にいた時は,朝鮮戦争で戦死したトルコ兵のお墓にも行ってたので,”ホスト国と僕らの国”っていうテーマで動く方針だったのでしょう.
まあ悪いこっちゃないですわね.
HN: koz,2008/01/13/21:54
▼ 【余談】
『トルコは親日』と言い出す人に対して思うところがあったので,ちょっと書きます.
少し前まで「柏崎トルコ文化村」というのがありましたが,新潟の大地震の前に潰れてしまいました.
その後いったん営業再開ししたが,地震の影響もあり再び閉鎖.
一番の問題はトルコ共和国建国の父,ムスタファ・ケマル・アタテュルクの銅像が倒されたまま放置されていたこと.
記憶だけで申し訳ないですが,トルコ文化村倒産時にこの銅像を売りさばこうとし,トルコから抗議がきている筈です.
○○は親日国という前に,好かれるだけの事をどれだけしているのか.
以下のURLは上記の件に関するプレスリリースです.
http://www.tr.emb-japan.go.jp/J_05/Press/PR_01.htm
▲
【質問】
なぜユダヤ人とアラブ人は憎悪し始めたのか?
【回答】
シオニズムと,英国のまずい政策に起因.
歴史が近代に至って,世界各地で民族運動が盛んになってくるわけだけど,有史以来,ひたすら迫害の対象になってきたユダヤ人が,いっちょ自分たちが安心して暮らせる国を作るべ,ってんで興したのが『シオニズム』.まあ祖国回帰運動とでも訳しとけ.
でもローマに対する最後の反乱(70年)が失敗し,ユダヤ人は祖国を失って世界中に離散(ディアスポラ)してから,彼らは国家の基盤になる土地を持ってなかったわけ.
じゃあどうするかということになるんだけど,最初はアフリカのウガンダに造るって話もあった.
でも彼らにとっちゃ,追われてから2000年がたってても,やっぱり祖国はシオンの丘(エルサレムの別名)にあるという想いが強かったのよ.
そこで,運動に従ってパレスチナに移住を開始したわけね.
しかし2000年の間に,そこには既にアラブ人が移り住んでいたわけで…
で,ここが最大のポイントになるんだけど,第1次大戦中,戦況を有利に運ぼうとした英国が,ユダヤ人とアラブ人双方に(別々に),「協力してくれたら君らの国の独立を認めてやるぜー」と約束したのよ.
同じ土地に関してね.
んで結局,どっちとの約束も守らずに中東をフランスと分け取りにしたんだから英国も悪党だけど,これがその後に大きな禍根を残すことになったわけ.
で,英国の委任統治領となったパレスチナだけど,続々と入植してくるユダヤ人とアラブ人との対立が日々,激化していく.
なんとか丸く収めようと英国も右往左往するんだけど,出す政策政策が双方の怒りを煽るだけで逆効果.対立は三つ巴になってくるわけよ.
ユダヤ=アラブ間の憎悪感情は,この期間に醸成されたとも言えるわな.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
シオニズム運動ではパレスチナ以外に建国場所候補はなかったのか?
【回答】
パレスチナ以外も候補に挙がっていた.その中にはキプロス島や東アフリカのウガンダもあった.
(「大人の参考書 『中東問題』がわかる!」,
青春出版社,2001/11/10,p.65)
【質問】
「パレスチナ問題はそもそもイギリスが・・・(以下略)」
というのを見るのですが,なぜイギリスが悪いのか教えてください
【回答】
英国の二重約束が,パレスチナ問題の原点であるため.
時は20世紀初頭,パレスチナは老大国オスマン・トルコが支配しておりましたが,制度疲労がその極に達し,持てる広大な領地も列強に分割されるのが時間の問題となっておりました.
さて,かねてより中東での植民地獲得への意欲を見せていた英国ですが,第一次大戦の勃発とともに,対土工作を開始します.
まず手始めに1915年,エジプト駐在の高等弁務官H・マクマホンは,預言者ムハンマドその人の血を引くと言われる,名門ハーシム家の頭領,聖地メッカの太守フセインと,トルコへの反乱と引き替えに,アラブの独立を認める内容の計10通の手紙を交換します(いわゆる「フセイン・マクマホン書簡」).
これを受けて16年6月,フセインはトルコに対し反旗を翻します.
この時,アラブ軍に連絡将校として派遣されていたのが,かの有名な「アラビアのロレンス」ことT・E・ロレンスです.
彼の活躍もあって,18年10月,フセインの第3王子ファイサル率いる反乱軍はダマスカスに入城.アラブ人は見事に義理を果たしたわけです.
さて国家が戦争を遂行するにあたっては,当然,莫大な資金が必要になります.
世界でもっともお金を持っているのはユダヤ人.
そこで1917年11月,英国外相J・バルフォア卿は英国シオニスト連合会会長L・ロスチャイルドに宛てた手紙の中で,パレスチナにおけるユダヤ人国家建設の承認を約束します(「バルフォア宣言」).
…あれ? この時点で二重の約束をしちゃってますね.いいんでしょうか.
ところがさすがは老獪な大英帝国,こんなもんじゃ終わりません.
先だっての1916年5月,英国の外交専門家M・サイクスとフランスの外交官S・G・ピコとの間で,中東の英仏による領土分割についての会合が持たれ,
英:パレスチナ,イラク南部
仏:シリア,レバノン,イラク北部
露:トルコ北東部
英仏露の共同管理:エルサレム,ヤッファ,ガザ
で分けちゃうぜへっへーという内容の「サイクス・ピコ協定」を密かに締結していたのです.
つまり二枚舌ならぬ三枚舌外交だったわけで…
さて戦争が終わり,1920年3月,大シリアを制圧したファイサルは,前の約束通り独立するぞーということで,シリア,レバノン,パレスチナ代表からの推挙を受け,国王を名乗ります.
しかし,こんなことを同地の新たな支配者であるフランスが認めるはずもなく,わずか3ヶ月後,哀れファイサルはダマスカスから実力で叩き出されてしまいました.
ここに至って英国もさすがに良心が咎めたのか,時の植民地相W・チャーチルの計らいにより,ファイサルをイラク王,フセインの第2王子であるアブドッラーをトランス・ヨルダン首長の地位に就けます(当然に傀儡ですが).
そしてヨルダンを分割したパレスチナの残りの部分は,(どっちの民族に治めさせるわけにもいかないので)苦肉の策として自らが統治することにしました.
さて一方のユダヤ人はと言いますと,矢張り先の約定に沿った形で,パレスチナにホームランドを築くべく,同地への移住を加速させます.
これに自らの住む場所を奪われるのではと危惧したアラブ人が猛反発,各地で反ユダヤ暴動が巻き起こり,慌てた英国高等弁務官H・サミュエル(彼はユダヤ人でした)は,移民受け入れの中止をアラブ人代表団に約束.
これでどうにか混乱は収まったかのように見えたんですが…
1933年,ドイツでババリアの伍長殿が政権を握ったことから悲劇の幕が上がります.
ユダヤ人敵視政策を公約に掲げ,かつ政策として実行していったナチスの圧力に耐えかね,約30万人のユダヤ人がドイツを捨て国外へ脱出.その多くがパレスチナに向かいました.
押し寄せるユダヤ人の多さに,当初は寛大な姿勢を見せていたアラブ人もブチ切れ,再び反ユダヤ闘争,そして反英独立闘争が活発化します.
困り果てた英国は37年にピール分割案(=パレスチナをアラブ4:ユダヤ1で分ける)を提示しますが,アラブ側はこれを拒否します.
さらに困った英国は分割案を破棄,39年にマクドナルド白書で(大幅にアラブ側に譲歩した)統一パレスチナ国家案を提示しますが,これもアラブ,ユダヤ双方の反発を招いただけで終了.逆に今度はユダヤ人までが反英闘争を開始してしまい…あーあ.
第二次大戦中の小康状態を挟んで,暴力の応酬はどうにもならないところまで激化します.
それでも英国はどうにか事態を収拾しようとしますが,1946年7月,ユダヤ人テロ組織IZLにより(英国政庁が置かれていた)キング・ダビデホテルが爆破されるに及んで,英国は統治への自信も意欲も失ってしまいます.
47年2月,英国はパレスチナからの撤退を決意,問題を当時,創設されたばかりの国連に丸投げしてしまいます.
つまりまあ,自分で火を付けておいて,手に負えなくなったからバックレてしまったわけですな.
その後,国連の分割決議案から第一次中東戦争へ繋がっていくわけですが,それはまた別の話.(朗読:森本レオ)
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
ただ厳密に言うと,フセイン=マクマホン書簡の中にあるアラブ国家にパレスチナは含まれていなかったりする.
(フセインは歴史的経緯からして当然に含まれているもんだと思っていたので確認を怠った)
なので,英国サイドからすれば二枚舌外交ではないと強弁できないこともない.
まことに食えない国である.
【質問】
パレスチナ民衆運動の最初のリーダーは?
【回答】
ハッジ・アミンと呼ばれた,エルサレムのムフティ(イスラーム法学の最高権威者),アミン・アル・フセイニ(1896-1974).
予言者ムハンマドの血筋を引くとされるフセイニは,1921年,宗教権威者のムフティとなり,聖地を含む不可分の宗教財産(ワクフ)の管理権も掌握し,パレスチナ人の独立運動を展開.
しかし英国の委任統治への反発から,第2次大戦中,ヒトラーと会談し,ナチがユダヤ人を片っ端から殺せばいいと広言.これが欧米のみならず,アラブ内でも顰蹙を買う.
それでも,51年には,約30カ国が参加したイスラーム会議の議長にも選ばれ,ひところはフセイニがパレスチナ解放運動の「顔」だった.
しかしナセルに嫌われてPLOからは疎外され,アラファトとも対立して失脚.
詳しくは,布施広著『アラブの怨念』(新潮文庫,2001/12/1),P.79を参照されたし
フセイニとヒトラー

画像:イスラエル前国防相 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【質問】
ケマル・アタチュルクって誰?
【回答】
いわゆる「トルコ近代化の父」.
第1次大戦では軍の司令官として,ガリポリ半島に上陸した英仏軍を撃退.
大戦敗戦後,連合国側が企てていたオスマン帝国分割を,占領軍を撃退することでこれを阻止し,皇帝を退位させてトルコ共和国を誕生させました.
近代トルコの国父,ムスタファ・ケマル・アタテュルク (ケマル・パシャ) と聞いて,藤原さんが思い出す話は……
ある時,トルコの国会で女性に参政権を与えるか否かが議論されていた.
議論は賛成派,反対派,双方譲らず,同じような中身の演説の応酬が延々と繰り返されていた.
それを朝から黙って聞いていた,ケマルが立ち上がり曰く.
「あ〜 ちょっと一言いい? オレ,朝からず〜っと話を聞いてたけどさ,結局,同じ事をず〜っと話し合ってるだけじゃん!
もうさ,とっとと決着つけちゃいなよ!
次にさ,オレが止めるまでにどうするか決まってなかったら,
君ら全員首チョンパね!
あ,言い忘れたけど,
物理的にだから!
んじゃ,議論再開どうぞ!」
この後,議論は 「女性に参政権を与える」 で決まったそうな.
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・U < さすが独裁者!
/JベタJ \__________
でも,ケマルって,国会が大好きなのよね (w`;
ベタ藤原 in mixi,2008年03月06日21:54
【質問】
トルコから追放されたスルタンやカリフは,その後どうなったのか?
【回答】
トルコでは帝政廃止後も皇族達は住み続けていました.
しかし,1924年3月3日,トルコ大国民評議会に於て,法律第431号が承認されました.
これは旧オスマン・トルコ帝国皇族を国外追放に処するもので,これに従い,男系皇族36名,女系皇族48名,その子供達60名の合計144名が国外に出て行く事になりました.
彼らはパリ,ニース,ニューヨーク,ベイルート,カイロ,デリー,ティラナ,ソフィアなど各地に散らばりますが,多くは生活苦に陥り,ある者は窮迫から逃れる為,イスラーム諸国からの資金援助を受け,ある者は娘や息子を外国の王室に通婚させて糊口を凌ぎました.
最後のカリフであるアブデュルメジド・エフェンディには,未だ列強にとって使い道が充分にありました.
彼はスイスのテリトにあるグランド・ホテルに滞在し,英仏の政府関係者やインドのイスラーム指導者であるアミール・アリの訪問を受けました.
彼らは,英国の保護国であるエジプト国王フアードI世からの定義書を携えており,元カリフがインド,或いはエジプトに移住し,フアードI世の助力を得てカリフ制の再興を目指そうと彼を熱心に説きます.
要は第一次大戦後,民族主義の高まりで危機感を覚えた英国を中心に,昔の権威を持ち出して,彼らが支配するイスラーム地域の安定を手に入れようというものでした.
しかし賢明にもと言うか,英仏に幾度も煮え湯を飲まされていたアブデュルメジド・エフェンディは,この政治的な提案を受容れず,1931年,娘のデュリュシェフヴァルをハイダラバード藩王国の王太子アザム・ハンに,姪のニリュフェルを他の王子ムッアザム・ハンに嫁がせる事で糊口を凌ぐ事となります.
因みに彼は1944年,パリで客死しました.
また,スルタン・ムラトV世の孫セルマ姫は,1930年代末に現在はネパールにあるバダルプール州のコトワラ藩主セイイド・サジド・ヒュセイン・アリと結婚し,カリフの息子であるオメル・ファルーク・エフェンディの3人の娘,ファトマ・ネリシャーはムハンマド・アブデル・モネイムと,ゼフラー・ハンザデ・スルタンは,ムハンマド・アリー・イブラヒム,ネジェラ・ヘイベトゥッラー・スルタンはネビル・アムル・イブラーヒム…彼らは何れもエジプト王族です…と結婚しました.
更にスルタン・アブデュルハミトの孫のメフメト・オルハンの娘であるネジュラは,エジプトの王子サイード・ベイ,アブデュルハミトの息子アブドュルラヒム・エフェンディの娘ミフリシャー・セルチュクは,王子ナイフ・ブン・アブドゥッラーと,アブデュルアジズの孫シュクリエはクウェートのアミール,シェイフ・アフメド・アル・サバハと結婚しました.
この婚姻政策は娘に限った訳ではなく,男系皇族でも,アブデュルハミトの息子メフメト・アビトは,アルバニア国王ゾクーI世の妹セニイェと結婚しています.
こうした結婚は,オスマン皇族側から見れば,当座の生活資金を得る為であり,相手の王族側から見れば,オスマン皇族と姻戚関係を結ぶ事で,他のイスラーム指導者より一段と権威が高まると考えていました.
当然,政略結婚なので,余り上手く行く事はなく,例えば,セルマ姫は,結局藩主と上手く行かず,離婚してパリに移住し,貧困の中で死亡しています.
一方,トルコ共和国政府もこうした婚姻には注意を払っていました.
彼らはスルタン,またはカリフの制度がトルコ以外の何処かで再興するのではないかと懸念していたからです.
と言うのも1925年,英国の支援を受け,アナトリア南東部及び東部諸地域一帯を巻き込んで勃発したシェイフ・サイートの叛乱に際し,ディヤルバクルのウル・ジャーミでは,アブデュルハミトの息子メフメト・セリムをスルタン・カリフに選出し,その名において説教が行われていたりしたからです.
また,最後のカリフアブデュルメジド・エフェンディの兄弟で,スルタン・アブデュルアジズの末子であるセイフェッディン・エフェンディの息子マフムート・シェヴケト・エフェンディを筆頭として,幾人かはその再興活動を試み,英国から秘密援助を受けていた事が判っています.
マフムート・シェヴケト・エフェンディの場合は,トルコを追放された後,イタリアを経てエジプトに移住し,最後は1973年にフランスで死去しました.
彼は一時期,トルコ共和国に於けるスルタン制再興運動に関わっていました.
因みに彼は1948年,パレスチナ国家の元首に就任する事を懇請されますが,これを断っています.
元首に就任する事を懇請された皇族としては,例えば,ブルハネッディン皇子の場合,1913年にアルバニアから,1921年にはイラクから王位就任の要望を受けましたが,前者は列強が,後者はトルコ共和国が阻止工作を行い,失敗しました.
また,1928年にはメフメト・アビド,オメル・ファルークなどがアルバニア国王候補として名前が挙がっています.
これも,トルコ共和国の必死の阻止工作で頓挫しました.
こうした血筋を利用するのは,日本でも行われています.
1930年代に入ると,イスラームとカリフ制の密接な繋がりが,特に南アジアのムスリムに強い影響力を及ぼしていると分析した日本は,これを利用して日本の影響力を増そうと考えた訳です.
まぁ,満州帝国を建国した際に,愛新覚羅家を傀儡として立てたのと同じ発想ですね.
日本と関わりのあったとされるオスマン皇族は4人.
メフメト・アビド・エフェンディ,ジェマル・エフェンディ,マフムード・エクレム・ルザ,アブデュルケリム・エフェンディでした.
但しマフムート・エクレム・ルザは,オスマン皇族の中の人ではなく,親戚筋ではないかと考えられている謎の人物だったりします.
1931〜33年にかけ,現在の新疆ウイグル自治区で,中華民国に対する叛乱が発生します.
この中心はトルキスタン系のムスリムで,1932年9月10日に東トルキスタン共和国,1933年10月12日には東トルキスタン・トルコ・イスラーム共和国の建国が宣言されました.
満州,内蒙古と,日本の暗躍した傀儡政権樹立が続いており,次いで熱河に日本が侵攻していって居ますから,次の標的はこの地区であることは自明の理であり,裏で日本が支援,関与していたとされています.
その影で,オスマン皇族を担ぎ出す計画が立てられていました.
しかし,東トルキスタン・トルコ・イスラーム共和国の指導者達は,内部で共和派とスルタン派に分かれて争っていた為,首都カシュガルに皇族を迎え入れる事が出来ませんでした.
当初,このスルタン候補には,ジェマル・エフェンディが挙げられています.
彼は,スルタン・アブデュルアジズ1世の孫でした.
また,メフメト・アビド・エフェンディが一時期東京に招聘されたと言う記録もあります.
日本も実は色々やってた訳ですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/20 21:53
【質問】
アブデュルケリム・エフェンディについて教えられたし.
【回答】
アブデュルケリム・エフェンディは,1906年にユルドゥズ宮殿で生まれました.
彼の祖父は,19世紀後半,露土戦争などで大半の欧州領土を失ったスルタン・アブデュルハミトII世です.
一方,この祖父は,其の後のイスラーム世界に重要な影響を与えた汎イスラーム主義を創始した人でもあります.
そして,彼の生涯にはずっと,この汎イスラーム主義がついて回る訳です.
このスルタンは,青年トルコ党運動の鎮圧に失敗して失脚し,皇帝の地位を追われて軟禁され,1918年に死去します.
しかしアブデュルケリムは,其の後も順調に成長し,陸軍士官学校に在学している最中に,皇族追放令によって祖国を追われました.
祖国を追われた後は,父親のセリム・エフェンディと共にダマスカスに渡り,ベイルート,アレッポと居場所を転々とします.
1930年,24歳のアブデュルケリムは,ベイルートに於てニメト・ハーヌムと言う女性と恋に落ち,2月24日にアレッポで結婚しました.
この結婚には問題が一つありました.
と言うのも,新婦はマロン派のキリスト教徒だったのです.
当然,父親は怒り狂い,その結婚を認めませんでした.
結局,アブデュルケリムは新婦を連れて,ダマスカスに居を移しました.
父親からの援助が絶たれ,かといって何か仕事が出来る訳でもなく,生活は困窮し,2度も自殺未遂を起こしています.
それでも,最後のカリフ,アブデュルメジドの娘,デュリュシェフヴァルを通じて,ハイダラバード藩王国から援助を貰い,何とか生活を建直した後,1930年に長男,1932年に次男が誕生しました.
思えば,この頃が一番彼にとっては幸福だった時期かも知れません.
1933年,そのハイダラバード藩王を頼って,インドに赴きます.
1920年代,インドでは第一次大戦の英国の二枚舌外交を巡って,反英運動が盛んだったのですが,インドのイスラーム達は,インドにカリフを復活させてその下にイスラームの民を結集させ,英国からの独立を目指すと言う,ヒラーファト運動と言う活動を行っていました.
デュリュシェフヴァルがそうした活動にどの程度携わっていたのかは定かではありませんが,兎も角,アブデュルケリムは,ヒラーファト運動の指導者の招きに応じ,インドに渡った訳です.
ところが,この滞在も長くありませんでした.
と言うのも,祖父は汎イスラーム主義を標榜していたアブデュルハミトII世です.
このことが,英国統治当局からすると,ヒラーファト運動を再燃させ,再び反英運動が激化するのではないかと言う懸念を盛った為でした.
また,インドのムスリムやそれ以外の人々を通じ,日本との関係を深めるのではないかと疑念を抱きもしました.
インドから英国が出て行けば,其の後,同じアジア諸国と言う事で,日本が彼らの後に入り込んでくるのではないか,こうした汎イスラーム運動を通じて,日本と英国植民地のイスラームが結びつけば,途端にアジア地域から英国の力は一掃されるのではないか,と思い込んだ為,アブデュルケリムはインド総督府によって好ましからざる人物として,国外退去に処せられました.
実際,アブデュルケリムがどうやって日本と関係を持ったのかと言うのは,諸説有りますが,一番可能性の高いのは,ムフシン・チョパンオールと言う人物を通じて,とされています.
ムフシン・チョパンオールは,アナトリア中央部に勢威を張っていた豪族であるチョパンオール家の出身で,父親は宮殿に出仕する将校でしたがバルカン戦争で戦死しました.
ムフシン・チョパンオールは,首都で生まれ,幼少の一時期を宮殿で皇子達と過ごしています.
そして,アブデュルケリムとは学友の関係でもありました.
ムフシンは軍人にならず,建築家を志しますが,其の後フリーのジャーナリストとして,Le
Mondeなど各紙に記事を寄稿して生活していました.
彼は,トルコを出た後,フランスのパリに居を定め,世界中を股に掛けていた訳です.
こうしたムフシンと,日本との接点が出来たのは,恐らくパリの日本大使館の誰かと懇意になった為ではないかと推定されています.
1932年8月,アフガーンに滞在していたムフシンは,パリからの来信を得た後,日本に向かう旅に出,1933年2月,神戸に到着しました.
彼の表向きの身分は,トルコの半官半民の新聞アクシャム紙の特派員であり,東アジア,満洲を視察すると共に,日中問題について調査し,それを記事にして送るとしていました.
因みにムフシンは,後に東京回教団の団長であり,トルコ系タタール人指導者であるムハンマド・アブドルハイ・クルバンガリーの義妹と結婚しています.
1933年5月,アブデュルケリムはインドから中国を経て東京に到着しました.
奇妙な事に,アヤズ・イスハキーと言う人物と,アブデュルレシト・イブラヒムと言う人物も東京にやってきました.
イスハキーは極東のトルコ系タタール人を結集させるのを目的として,イブラヒムはトルコでの軟禁生活を逃れ,汎イスラーム運動を日本で再興させる為招請されて日本に来ています.
何れにしても,日本政府の誰かが,イスラームを利用しようとした事は間違いないようです.
では,日本側の窓口は誰が担っていたか…ですが,1933年2月28日に,クルバンガリーがアブデュルケリムの秘書と名乗る人物と共に,予備役海軍中将である小笠原長生を訪問した事が切っ掛けとなっている様です.
クルバンガリーは一つの計画を持っていました.
日本が1931年に満洲で行った様に,東トルキスタンで反乱を起こし,国家を樹立してその元首にオスマン皇族であるアブデュルケリムを擁立すると言うものです.
この計画を小笠原に持ちかけて以後,クルバンガリーは頻繁に小笠原と接触します.
小笠原も,彼のコネクションを用いて,その計画に荷担していたようです.
小笠原と懇意な間柄である,平沼騏一郎の私設秘書,実川時次郎は,アブデュルケリム来日の場合の諸経費を試算しており,彼が来日した場合は,毎月1,000円の支出が必要であると述べていました.
その計画に必要な資金は,大阪商船の社長である堀啓次郎と,政友会の陰の実力者森恪の2名が拠出しています.
受容れ準備が整い,ムフシンはアブデュルケリム皇子をシンガポールで出迎え,5月中頃に日本に到着すると言う計画で,日本を発ちました.
小笠原はこれを受けて,陸軍参謀本部第三部長であった小畑敏四郎に電話で知らせています.
こうしてアブデュルケリム皇子は,5月21日,東京に到着しました.
波止場には,衆議院議員,貴族院議員,陸海軍の将官,国粋主義系の学生など100〜150名程度が万歳三唱で出迎えました.
東京滞在中,彼は精力的に人に会い,特に東京在住のトルコ系タタール人達と会合を持ちます.
これを報じた外国メディアは,意外にもソ連でした.
プラウダでは東京電として,アブデュルケリムの日本訪問を報じ,また,東トルキスタン共和国建国の暁には国家元首に就任する予定であるとも報じています.
表向き,彼はこれを否定していますが,7月に日本人将校3名,ムフシン・チョパンオールを共に満州に渡り,要人達と接触して話をしたり,9月には日本人将校2名が空路東トルキスタンに入ろうとして,中国当局により阻止されています.
将校の行動は,中国から見れば,アブデュルケリムの東トルキスタン入りについての下準備と思われていました.
とは言え,未だこの時期は陸軍,海軍とも未だ理性のある人々もおり,その行動を支持しない人々も多かった様です.
警察はアブデュルケリムを危険人物として,執拗な尾行,監視を行っています.
こうした圧力から彼を守ったのは政友会の森恪でした.
しかし,当初1年の滞在であったアブデュルケリム皇子の日本滞在は,4ヶ月で終了を余儀なくされ,9月11日に日本を離れ,11月に上海に入っています.
12月に,英国情報部の担当者は,上海に於けるアブデュルケリム皇子の動静を本国に伝えていますが,彼が遠からず東トルキスタンに入る予定であるとしています.
また,1934年3月23日のタス通信のニュースでは,アブデュルケリム皇子が東トルキスタンに向かったと報じました.
4月6日,タイムズ紙は,アブデュルケリムが知られざる場所に赴く為に上海を離れたと報じています.
また,西トルキスタンでソ連が大規模な演習を行っていると報じてもいました.
当時,中,英,ソ,各国にとって,彼の動静は重大な関心事でした.
なお,4月3日,日本はアブデュルケリムとの関係を公式に否定しました.
5月初旬,アブデュルケリムは東トルキスタンに樹立された東トルキスタン・トルコ・イスラーム共和国首班サビト・ダモッラーに特使を派遣していますが,6月12日,この儚い国は,中国系回教徒のホータン侵攻により呆気なく崩壊してしまいました.
此処にアブデュルケリムの野望は潰え,失意の彼は9月に森恪の援助で,米国に旅立っていきます.
それから1年2ヶ月後の1935年8月4日付のニューヨークタイムズ紙は,アブデュルケリム皇子がブロードウェイ43番地にある安宿ホテル・キャデラックの一室で右頭部を32口径の拳銃で撃ちぬき,自殺したと報じました.
ニューヨーク市警のヴァレンティン警部宛の遺書めいたメモには,オスマン朝再興の資金を求めて東奔西走したが,その資金を得る事が出来ず,結局自殺するしか手がなかったと書かれていました.
彼のポケットには僅か75セントしか残っていなかったと言う事です.
とは言え,当面の生活の糧として,自殺する数時間前にフォード自動車から手紙が彼宛に送られ,彼を同社の上海及び東トルキスタンの販売代理人に任ずると言う通知が来ていました.
また,自殺する数時間前に部屋に入り,朝5時に起こしてくれと言い残していました.
彼が本当に自殺したのか,当時から今に至るまでも憶測が飛び交っています.
ある人は,米国の諜報機関から脅迫を受けていた事が原因だとする一方,ソ連の諜報機関員が手を下したと言う説,トルコ当局が暗殺した説,更に日本の特務機関による暗殺と言う説まであります.
特に日本の特務機関暗殺説については,旧オスマン帝国の皇族達の間でも,未だに実しやかに囁かれたりしているそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/22 22:50
【質問】
第2次大戦にトルコはなぜ殆ど参戦しなかったのですか?
【回答】
まず,ドイツ軍によるルーマニアやブルガリアなどのバルカンへの侵略が,トルコを英仏側に引き寄せました.
結果,1939年10月に,英仏とトルコの間にアンカラ協定が結ばれます.
英仏はトルコをなんとかして連合軍側に参加させようとしましたが,既にバルカン半島の大半を席捲しているドイツに宣戦することは,トルコの軍事力では不可能でした.
1941年6月18日,トルコはドイツとの間にも不可侵条約を結びます.
ドイツは前首相フランツ・フォン=パーペンをアンカラに派遣してトルコの歓心を買い,また,トルコ国内に残るトゥラニズム感情を刺激し,国内にナチズムに対する同情を呼び起こすことに成功します.
そのため,都市においては1942年以降,トゥラン主義者が急速に影響力を獲得して行く事になります.
このとき,ドイツは,ソ連内のトルコ系住民を反乱させ,その居住地域をトルコに提供する約束をしたと伝えられますが,トルコはこの提案は受け入れませんでした.
結局トルコは,大戦終了近くまで中立を維持し,1944年8月になってドイツと断交,1945年2月23日に,ドイツと日本にたいして宣戦布告したのでした.
中立を維持したトルコでしたが,バルカンやエーゲ海方面におけるドイツ・イタリアの脅威もあり,実際には常時臨戦体制をとらねばなりませんでした.
軍事予算は2倍に増やされ,若者約100万人が兵役に採られました.生産体制においても民需より軍需品の生産が優先されました.
1940年には「国防法」が発布され,鉱山や工場における勤労奉仕が義務付けられました.
こうした戦時体制は,農業生産力を低下させて食糧難を招いただけでなく,一部の生活必需品が入手困難になり,激しいインフレを引き起こします.
1940年に「国民保護法」が出され,価格や販売などに関する統制が敷かれた事も,戦時経済の重圧を国民に押し付けることになりました.
42年になると,軍事費の重圧によって財政難に陥った政府は,大都市に住む資本家・商人を対象とした「富裕税」を新設.この税は,是非を巡って大きな議論を呼び,これを逃れようとした者達が重罰に処されたことから,国際的にも話題を呼びました.大都市に住む裕福階級の多くが,キリスト教徒少数民や外国人だったからです.
(永田雄三 from 「世界現代史11 中東現代史1」山川出版社,'82を参照されたし
【質問】
第2次大戦の時,中東はどうなっていたのですか?
【回答】
イランは,国家として中立を模索したものの,ソ連が北半分を,英国と米国が南半分を占領し,援蘇物資のルートとして使用しています.
ソ連は,この地に緩衝国家を作りたかったようで,タブリーズに人民共和国を打ち立てようとしていました.
イラクは,英国の委任統治領でしたが,1921年に独立国になっています.
英国軍が駐留していましたが,元々軍部を中心に反英勢力が根強くあり,1941年にドイツの後押しで軍部のクーデターが起き,一度親英政権は打ち倒されます.
しかし英国が即座に対応してカウンタークーデターを起こしたため,反乱の芽は摘まれ,親独政権はあっけなく倒れました.
以後は,英国軍の管理下の下で親英政権を維持しています.
シリアは1918年に王国として独立しますが,1920年にフランスの委任統治領となり,ダマスクス,アレッポ,アラウィー派,ドルーズ派の各自治区に分けられます.
1939年にトルコとの交渉で,イスラム托鉢修道会領の返還を行なったことで,住民の反発が起きますが,第二次大戦の勃発でうやむやになり,フランスの降伏で,ヴィシー政権に付きます.
しかし,1941年,ヴィシー政権軍と,主にパレスチナから侵攻した自由フランス軍と,イラクから侵攻した英国軍によって戦闘が行なわれ,数度の戦闘の結果,ヴィシー政権軍は降伏しました.
1941年4月にシリアは自治国として独立し,1944年に正式独立しました.
ただ,その後,国境を接する全ての国と,国境紛争を起こしています.
レバノンは,1926年に委任統治領シリアから自立し,1940年にヴィシー政権への支持を行ないました.
その後はベイルート付近で,ヴィシー政権軍と自由フランス軍との戦闘が行なわれ,1941年12月に自治国となり,1944年に正式独立しました.
パレスチナは英国委任統治領でしたが,祖国帰還事業による移入ユダヤ人の増加と,従来住んでいたアラブ人の軋轢が強まり,1936年から39年にかけて内乱状態となります.
そこで,1939年に英国は「白書政策」というものを行なって,ユダヤ人の流入と土地購入を制限し,アラブ人を懐柔しますが,これにユダヤ人が反発.ハガナなどの武装勢力が英国軍の襲撃などを行ないます.
ところが,第二次大戦勃発に伴い,今度はユダヤ人は英国側に立って,パレスチナを近東に於ける連合軍の補給基地として提供し,1942年以降は英軍の一部として,ユダヤ人志願兵旅団を供出します.
これに対し,アラブ人は一連の出来事に反発し,親枢軸への傾斜を強めていきますが,これが,後の中東問題のひとつの引き金になってきています.
1945年以降,英国は再び「白書政策」を行なったため,再びユダヤ人が反発し,駐留英国軍を襲撃したため,英国はこの統治を放棄し,国連に付託してしまいました.
ヨルダンは当時,トランスヨルダンと言い,英国の委任統治領となりましたが,サウド家との抗争に敗れたメッカ太守及びへジャズ王だったハシミテ家が国王となって統治を行なう王国となっています.(ちなみに,イラク,シリアの国王はトランスヨルダンの国王と兄弟にあたります.)
このため,隣国サウド家とは常に緊張関係にあり,英国委任統治領との緩衝国家として機能すべく,英国との軍事同盟を結び,英国軍の将軍の指揮下にアラブ軍団を作って,参戦しています.
サウジアラビアは,ハシミテ家を追放したサウド家によって成立した国家で,1926年にヘジャズとネジドの王となり,1932年に王国として統一されました.
1934年には,国境線を巡ってイェメンと戦争となって,これは1936年まで続いています.
第二次大戦中は,英国からも働きかけを受けていましたが,イブン・サウド王はハシミテ家を支援する英国を余り好まず,米国からの援助と基地建設を容認しています.
米国による,武器援助で,サウジアラビア軍は近代化を果たし得ました.
エジプトは,1922年に英国の保護国となり,1936年に独立します.
但し,運河地帯は20年間の英国軍の駐留を認め,スーダンは英国との1889年条約以来,共同統治権を認めると言うもので,民族主義者はこれに不満を持っていました.
また,ファルーク王即位2年後に第2次大戦が始まると,1936年条約の規定にしたがって,英軍を中心とする連合軍がエジプトを占拠した.
このことは国民の反英感情を強め,同時に,枢軸国を支援するエジプト人の声も高まった.
エジプトはイタリア軍が占領するリビアとエチオピアに挟まれた形となり,また,ファルーク王の側近にイタリア人が多いこと,エジプト軍人の中に枢軸国支持者が多数存在することが,ランプソン・駐エジプト英国大使の苛立ちを募らせた.
ランプソンは親ファルーク政権を倒し,当時はイギリスになびいていたワフド党の政権を実現させることを目論み,一方,ファルーク王はそれをいかに食いとめるかに専念した.
ランプソンはファルーク王の退位を願うようになり,アーブディーン宮殿包囲事件にそれが繋がっていく.
1940年6月には,アリー・マーヘル内閣解散を,ランプソンはファルーク王に強要.ファルーク王側近で,枢密院長を務めたマーヘルは,数多い老練のエジプト人政治家の中でも,ランプソンが最も要注意と考えた人物だった.
39年8月に首相となったマーヘルは,大戦勃発後,英国との一応の協力関係の維持に務めた.
しかし,ランプソンは次第に,マーヘルの枢軸国への傾きを革新,イタリア参戦をきっかけに内閣打倒に踏み切った.
そして,ワフド党のナッハース組閣を狙ったが,ファルークの抵抗に遭い,中立内閣成立を許した.
ナッハース内閣が実現したのは42年のアーブディーン事件のときである.
ファルーク王は,ナッハース内閣打倒を試みるが,43年4-5月,44年4月と,二度に渡ってランプソンの軍事的威嚇によって失敗する.
その間,イタリアがリビアから侵攻し,後一歩の所まで追いつめますが,補給に失敗して撤退します.
なお,この際,後に王制打倒クーデターを指揮する国軍の若手将校(ナセルとかサダト)による,王制打倒クーデターが企図されますが,イラクの失敗で懲りた英国によって察知され,彼らの反乱は未然に防がれます.
ランプソンはファルーク王退位を果たすこととなく,1946年に解任された.
このほか,マグレブ諸国(モロッコ,アルジェリア,チュニジア)は米国の欧州に於ける最初の大規模作戦,トーチ作戦で制圧され,リビアは英国軍によって占領,スーダンはエジプトと英国の共同統治によって大戦の影響を余り受けず(戦力の提供は行なっていますが),西サハラ,タンジール,イフニはスペインの統治下によって,かなりの圧力を連合国から受けていますが,一応維持しています.
また,クウェート,中立地帯,湾岸諸国,マスカットオマン,イェメンについては,英国保護下の諸国であり,イェメン領アデンが英国の中東向け補給の最前線基地となったほかは,特に大戦の影響を受けていません.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,
なお,エジプトの項は,以下の文献にて補強:
池田美佐子 from 「歴史のなかの開発」,岩波書店,1997/11/25,
p.164-165を参照されたし
アラビア語版『我が闘争』

イスラエル前国防相 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【質問】
日本がアメリカと戦争した理由に石油がありますが,当時の中東の石油事情はどうだったんでしょう?
【回答】
中東で油田が発見・開発されるようになったのは1920年代後半からですが,WW2当時は未だ開発途上にあり,大規模な油井が掘られ主要な原油供給地となったのは戦後になってからでした.
1940年の中近東産原油のシェアは約5%で,米の1/15 ソ連の1/2.5
欄印の1.5倍 程度です.
イラン…
英国人鉱山王ダーシーにより調査開始.英国の肝いりでビルマ石油が経営参加.
1908年5月,イラン南部のマスジッド・イ・スレイマンにて油田を発見.
アングロ・パーシャン石油(APOC)が設立される.
1921年にコサック兵団長レザ・ハーン大佐がクーデターを起こし,テヘランへ進撃.
カジャール朝の最後の王,アフマド・シャーはフランスに逃亡.
1925年,パフラヴィ朝成立.1932年,国内統一.
英ソの圧力を嫌い,独に接近.大戦中は厳正中立を宣言するも,対ソ援助ルートの確保を狙った英軍,ソ連軍が侵攻.
レザ・シャーは退位.王位は息子のモハマド・レザ・パフラビィが継ぐ.
以後,終戦まで両国の占領下に置かれる.
イラク…
1914年,APOCが50%,ドイツ銀行とロイヤル・ダッチ・シェルがそれぞれ25%を出資し,トルコ石油(後のイラク石油)が設立される.
第一次大戦の終結によりドイツ資本が追い出され,代わってフランスと米国が参入.
1927年10月,キルクーク近郊のババ・グルグルで油田発見.
1920年,英国によりファイサルがイラク王に封じられるも,国民には反英感情が根強く,大戦中はラシュッド・ガイラニらが反乱を起こしたりしてますが,あっさり英軍に鎮圧されています.
バーレーン…
「赤線協定」により,当初は大手石油会社の開発の対象外.
ニュージーランド人鉱山技師ホームズ少佐が油田の存在を確認.
ソーカル(カルフォルニア・スタンダード)が権利を獲得.1931年より採掘開始.
大戦中は英国の保護下.
サウジアラビア…
「赤線協定」により,当初は大手石油会社の開発の対象外.
1938年にダンマーンで油田発見.採掘権を獲得したソーカルはテキサコを加え,販売会社カルフォルニア・テキサス石油(カルテックス)を設立.
大戦中は,アメリカが石油の重要性を鑑み,同国への武器貸与法の適用を承認.
ルーズベルト「私はここに,サウジアラビアの防衛が合衆国の防衛にとって死活的に重要であることを認める」
クウェート…
ガルフ石油とAPOCが折半で出資,クウェート石油を設立.
1938年にクウェート市南方のブルガンで世界最大級の油田発見.
戦争勃発とともに開発は中断.そのまま終戦を迎える.
カタール,UAE,オマーン…
大戦終了までに石油の生産は始まってません.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME他)
【質問】
アーブディーン事件とは?
【回答】
1942/2/4夜,エジプト国王ファルークが滞在するアーブディーン宮殿を,英軍の多数の戦車・装甲車,兵士600名が包囲.
英国大使マイルス・ランプソンは,英陸軍中将ストーンと共に,数名の完全武装した将校を従えてアーブディーン宮殿に乗り込み,ファルーク王に退位状を差し出した.
それにファルーク王が署名しようとしたとき,枢密院長アフマド・ムハンマド・ハサナインが王に耳打ちした.
王はペンを止め,ランプソンに向かい,もう一度,機会をくれるよう請うた.
そして,それまで王が抵抗を続けていた,ランプソンの組閣案――連合軍に協力的なワフド当党首ナッハースによる組閣――に同意すると約束した.
(池田美佐子 from 「歴史のなかの開発」,岩波書店,1997/11/25, p.155を参照されたし
【質問】
アーブディーン宮殿を何故英軍は包囲したのか?
【回答】
当時,ロンメル元帥がリビアからエジプトの国境を脅かし始めていた.
ファルーク王の退位を長年,密かに望んでいたランプソン大使(上述)は,ファルーク王の,同盟国への強力が不充分であることを盾に,この日の軍事行動に出たのである.
直接的には,42年1月,ヴィシー政権との国交断絶を巡って中立内閣が倒れたことを,かねてから親英派ナッハース内閣組閣を狙っていたランプソンは,その好機と見たのだった.
1942/2/2,ランプソンはファルーク王に対し,ナッハースの組閣を望む意向を伝える.
翌日,ファルーク王はナッハースと会談したが,事態は進展しない.
そこで4日,ランプソンは最後通牒を王に送ったのである.
(池田美佐子 from 「歴史のなかの開発」,岩波書店,1997/11/25, p.155 & 167を参照されたし
【質問】
アーブディーン事件はどのような影響を与えたか?
【回答】
当時のエジプトの知識人であり,自由立憲党党首であったムハマド・フサイン・ハイカルは,手記にこう書く.
「1942年2月4日はエジプトの歴史の中で,そしてイギリスのエジプトにおける歴史の中で,最も暗い日の一つである.この日はディンシャワーイ事件,テル・アル・カビールの戦い,アレキサンドリアの爆撃などと同じように記憶され,代々に渡り,絶えることなく語り継がれることとなる.
……日常の雑事の中でこの苦々しい思い出を忘れようとしても,人々はこれを代々に渡って決して忘れることはない.
そして,これら日々とその悲劇のヒーロー達を思い出したとき,人々の魂は怒りで震え,自国の歴史さえ恥辱し,その国旗をも汚した者達の屍が眠る墓を暴きたいと願うのである」(Haykal, 1978, p.193)
この事件はエジプト人の記憶に深く刻みこまれただけでなく,エジプト現代史の転換に貢献することにもなった.
ガマル・アブドル・ナセルをリーダーとして1952年に革命を起こした自由将校団のメンバーは,42年当時,既にエジプト軍に入団していた.
宮殿を包囲した英軍に対抗できなかった苦い経験は,その6年後のパレスチナ戦争の経験と共に,この将校らの革命計画の源泉となった.
自由将校団の主要メンバー,アンワル・サダトは,その著書「ナイルの反乱」の中で,この42年事件の重要性を次のように語っている.
「近年に起こったこの屈辱的な事件は,革命運動への新しい刺激となった.
アブドル・ナセルとアブドル・ハキーム・アーメルは,エジプトが二度とこのような屈辱を受けることがないようにと固く決意した.
つまり,我々の革命謀議はここに始まったのである」(El Sadat, 1957, p.41)
一方,英国にとっては,この強行策は,イギリス帝国が世界各地でこれまでに数限りなく実行し,多くの場合,成功させた手法を踏襲したものだった.
しかし20世紀半ばのエジプトにおいて,この策は結果的にイギリスの決定的汚点となった.
これはイギリスのエジプトへの影響力を加速度的に低下させ,また,エジプトの内政変革をも促した.
英国政治家・官僚の,統治形態に関する意見も一律ではなかったが,ランプソンはイギリスの恒久的な世界覇権を望み,その手段として,19世紀の強硬な帝国主義者と同様,内政干渉,軍事力による威嚇も必要と考えた.
当時においても,ランプソンの立場は必ずしも例外的ではなかった.
例えば,英国戦時内閣が存続する間,42年の行為も含め,チャーチルはランプソンの立場を常に支持し続けた.
しかし,第2次大戦後の国際情勢の変化,イギリスの国力低下,労働党政権誕生,各地の民族運動の高揚に伴い,ランプソンの立場は事態の急変の中で完全に取り残されることになった.
1946年3月,労働党内閣によって突然,ランプソンはエジプト大使の任を解かれることになる.
なお,42年事件の場合も含め,英連合軍総司令官ら軍部は,エジプトへの組閣干渉に反対していたことは,記述に値する.
(池田美佐子 from 「歴史のなかの開発」,岩波書店,1997/11/25, p.155-166を参照されたし